第30話 最後の訓練と、ルナが「上出来」と言われた話
《オーレン》の月の二十二日。
査定まで、九日だ。
朝、地下三階の空気が、いつもより少し重かった。
重い、というのは比喩ではない。《オーレン》の月の終わりは、秋の入り口だ。空気が湿気を持ち始める。地下三階は地上より常に一段涼しいが、この時期は外との差が縮まる。
俺は在庫目録を開いた。今日の日付を書いた。
机の端の石が、六個、並んでいた。
* * *
朝、ルナが降りてきた。
「おはようございます、ししょー」
「来るのが早いな」
「今日、なんか早く起きちゃいました。なんでか、目が覚めてしまって」
「そうか」
「なんか、落ち着かなくて」
「感知か」
「感知というか——なんか、空気が、という感じです」
ルナが、コートを棚に掛けた。それから、いつもより少し時間をかけて、机の端の石を順番に見た。茶色が二個、白っぽいの一個、蛇紋岩一個、石英一個、頁岩一個。六個。
「石、全部あります」とルナが言った。
「そうだな」
「なんか、確認したくて」
「そうか」
「ししょー、今日の訓練は?」
「来歴読解の総合課題だ」
「総合課題?」
「複数の遺物を使って、感知・識別・報告書への変換を一人でこなす。俺は指示を出さない。お前が判断する」
ルナが、少しの間、それを受け取った。
「……全部一人でですか」
「そうだ」
「むずかしいですか」
「お前が今までやってきたことの、全部だ」
* * *
課題に使う遺物を三点、机の上に並べた。
一点目:B列の金属製小箱(複数人が触れた遺物)。二点目:C列の木製の筒(一人の強い精神波が残っている)。三点目:E列の革の袋(来歴が薄く、感知しにくいもの)。
「感知できた順に報告書を書け。わからなければ『不明』と書く。書けたら俺に渡せ」
「はい」
ルナが、椅子に座った。最初の遺物を手に取った。
俺は、棚の方へ行って、別の作業をした。ルナを見ない。答えを誘導しない。ルナが一人でやる。それが今日の課題だ。
しばらく、静かだった。
紙の上で羽根ペンが動く音が、断続的に聞こえた。ルナが一点目の感知を終えて、二点目に移った。また静かになった。三点目。また静かになった。
三十分ほど経って、ルナが「できました」と言った。
* * *
俺は、棚の作業を止めて、机の前に戻った。
ルナが、三枚の紙を差し出した。
一枚目から読んだ。
「B列金属製小箱。来歴:複数人、推定三名。接触は時系列的に重なっており、異なる時点での使用が推測される。精神波の質:一名は強い感情的乱れ(悲しみ系)、他二名は穏やか。遺物の状態:安定、変質なし。備考:感情的乱れを伴う人物の接触が最も古い可能性がある(残滓の濃淡から推測)。」
正確だ。「残滓の濃淡から接触時期を推測する」——これは来歴読解の上級技術だ。俺が明示的に教えたわけではない。ルナが自分で気づいた。
続けて、二枚目を読んだ。
「C列木製筒。来歴:一名。年齢は若い——二十代前後の感じ。精神波の質:強く、鋭い。感情の種類:怒りではなく、強い意志の感じ。何かを決意したときの精神波に似ている。遺物の状態:安定、変質なし。備考:この人物は、この筒を何かの決断のときに持っていたと思われる。」
「決意したときの精神波」——これも正確だ。この筒はかつて誓約の儀式に使われたもので、所有者が何かを誓うときに手に持っていた。ルナの感知は、儀式の内容ではなく、感情の質として正確に届いていた。
最後の三枚目を読んだ。
「E列革袋。来歴:不明瞭。感知できる残滓が薄く、所有者の特定は困難。感知できたこと:一人、または二人。年代は古い。精神波の質:穏やか。感情:不明。遺物の状態:安定、変質なし。備考:感知が困難な遺物と判断。無理に読もうとすると情報が混濁するため、現時点では上記が限界。」
俺は、三枚の紙を揃えた。
少しの間、三枚を見た。
「不明」と書いた箇所がある。限界を認めた。それは正しい判断だ。来歴読解で最も危険なのは、感知できていない部分を想像で補うことだ。ルナはそれをしなかった。
* * *
「……上出来だ」と俺は言った。
ルナが、目を丸くした。
「……え」
「上出来だと言った」
「……上出来って、言いましたか、ししょー」
「言った」
「……初めてですよね」
「そうかもしれない」
「『及第点』じゃなくて」
「そうだ」
「……」
ルナが、少しの間、何も言わなかった。いつもなら「やった!」と言うところだ。今日は言わなかった。
ただ、少しの間、三枚の紙を見ていた。
「三点目、ちゃんと不明って書けましたか」と聞いた。
「正しい判断だ。感知できない部分を想像で補うな。それを守った」
「……そっか」
「一点目の『残滓の濃淡から接触時期を推測する』——これは教えていない。自分で気づいたか」
「あ、なんか……感知してたら、なんとなく、こっちの人の方が昔触れた感じがして」
「記録しておけ。来歴読解の技術として有用だ」
「はい」
* * *
昼を過ぎて、ルナが在庫目録の整理をした。俺は最終報告書の最終確認をした。
互いに静かに、それぞれの作業をした。
一時間ほど経って、ルナが在庫目録から顔を上げた。
「ししょー、一個聞いてもいいですか?」
「なんだ」
「今日の訓練って——最後ですか」
俺は、羽根ペンを止めた。
「査定まで九日だ。訓練は査定当日まで続けるぞ」
「そっか」
「何か問題があるか」
「問題じゃないんですけど——なんか、今日が特別な感じがして」
「なぜ、そう思う?」
「なんか……上出来って言ってもらったので」
俺は、報告書に目を落としたまま、少しの間、何も言わなかった。
「今日が最後というわけではない」と俺は言った。
「はい」
「しかし——今日の訓練は、お前が今まで積み重ねてきたものを全部使った。その意味では、今日は一つの区切りだ」
「区切り…ですか?」
「そうだ」
ルナが、少し考えた。
「……じゃあ、区切りを越えたら、その先には、次があるんですよね?」
「そうだ」
「じゃあ、いいです」
* * *
夕刻、ルナが帰り支度をした。
「ししょー、明日も来ていいですか」
「当然だ」
「査定が終わっても来ていいですか」
「訓練は査定の後も続く。来い」
「やった」 ルナが、コートの前を合わせた。「ししょー、今日、ありがとうございました」
「何に対する礼だ? それは」
「上出来って言ってくれたので」
「評価として言った。礼はいい」
「でも言いたいので言います」
「わかった」
ルナが、螺旋階段の方へ向かった。一段目に足をかけて、振り返った。
「ししょー」
「なんだ」
「わたし、ちゃんとやれてますか」
俺は、ルナを見た。
「大丈夫。ちゃんとやれている」
「ほんとですか?」
「本当だ」
「……ありがとうございます」
今度は礼に反論しなかった。
ルナが、螺旋階段を上がっていった。途中で一段踏み外した音がした。
いつも通りだった。
* * *
地下三階に、静寂が戻った。
遺物の棚が、いつも通りに呼吸していた。机の上に、今日の三枚の報告書が残っていた。
俺は、その三枚を手に取った。
正確だった。
「精神干渉ゼロ」という事実は変わらない。しかし、この三枚の報告書は——精神干渉なしに書かれた来歴読解の報告書として、十分に機能する。
嘘のない嘘で設計した報告書の中に、この三枚を添付する。
添付資料として、これ以上のものはない。
俺は在庫目録を開いた。
《オーレン》の月、二十二日。
・来歴読解総合課題:三点、一人で完了。
「残滓の濃淡から接触時期を推測」——自発的に気づいた。
「限界の認識と『不明』の記録」——正しい判断。
・評価:上出来。初めて言った。
「ちゃんとやれてますか」——「ちゃんとやれている」と答えた。本当だ。
・査定まで:九日。
・机の端の石:六個。
ページを閉じた。
最終報告書の最後のページに目を落とした。
九日後、これを持って査定に行く。
全部、事実だ。
全部、事実だ——と、今夜は、それだけ書いた。




