第29話 査定まで二十日と、ルナが初めて「怖い」と言った話
《オーレン》の月の十二日。
査定まで、二十日だ。
在庫目録に数字を書きながら、俺はその事実を確認した。二十日。《エルネ》の月の初旬——査定月の最初の週に、最終査定がある。
《フォルナ》月の九日にルナが来てから、二百七十三日が経った。
机の端の石が、六個、並んでいた。
* * *
朝、ルナが降りてきた。
「おはようございます、ししょー」
「来るのが遅いぞ」
「途中でちょっと、寄り道してました」
だいたい予想はつくが、あえて聞いてみた。
「どこに?」
「厨房の近くです。今日の昼ごはんの確認」
「確認しなくていい」
「でも、今日はおいしいシチューで——」
「訓練を始めろ」
「はーい」
ルナが、コートを棚に掛けた。いつも通りの動作だ。《オーレン》の月になってから、ルナのコートはまた一枚薄くなっている。夏の終わりに差し掛かる頃だ。
しかし、ルナの精神波が——いつもと、少し違う。
俺は、それを感知した。
乱れではない。怒りでも不安でもない。ただ、いつもより少し——密度が高い。何かを抱えているときの精神波だ。
俺は、何も言わなかった。
* * *
午前の訓練は、来歴読解の応用だった。
今日は俺が事前に状態を確認していない遺物を使う。ルナが感知した内容を、俺が後から確認するという順番だ。ルナの感知精度を「答え合わせなし」で試す。
「この箱です」と俺は言って、E列の中段から薄い金属製の箱を出した。
ルナが、両手で受け取った。目を閉じた。
いつもより少し、集中するまでの時間が長かった。
「……一人です」とルナが言った。「女性の感じがします。年齢は……中年か、少し上か。なんか、几帳面な感じがして、精神波がきっちりしてます。感情は——穏やかで、でも、なんか、少し疲れた感じもある」
「続けろ」
「この箱、すごく大事にしてた感じがします。でも、自分のためじゃなくて——誰かのために大事にしてた感じ。自分の外に向いた大事さ、みたいな」
「そこまでか」
「......あと、なんか、この人、もういない感じがします。残滓が、昔のものだから」
「そうだ」と俺は言った。「この箱は三十年前に寄贈された遺物だ。所有者は当時四十代の女性で、职人として精密な道具を扱う仕事についていた——精神波の『几帳面さ』はその影響だ。『自分の外に向いた大事さ』は正確だ。この箱は彼女の娘に渡す予定だったが、娘が先に亡くなったため、寄贈された」
ルナが、箱をそっと机の上に置いた。少しの間、箱を見ていた。
「......娘さんに渡せなかったんですね」
「そうだ」
「なんか、悲しいですね」
「感知の記録として、それを別途残しておけ」
「はい」
ルナが、紙に何かを書いた。それから、少しの間、書いた紙を見ていた。
* * *
昼過ぎ、在庫目録の補完作業をしていたとき、ルナが急に手を止めた。
「ししょー」
「なんだ」
「一個聞いていいですか」
「なんだ」
ルナが、在庫目録から顔を上げた。少し、俺を見た。
「......査定って、どうなったらいいんですか」
「どういう意味だ」
「なんか、ちゃんとわかってないんですけど——通ったら、どうなるんですか」
「契約期間が延長される。俺の職が継続する。お前の訓練が続く」
「通らなかったら?」
「お前が処分される」
「わたしだけですか」
俺は、手を止めた。
ルナが、俺を見ていた。いつもの目だ。怒っていない、怖がっていない——ただ、聞いている。
「師弟契約の条件によっては、俺も評価に影響を受ける」と俺は言った。
「影響を受ける、というのは」
「査定の結果が俺の評価に直結する」
「......それだけですか」
三秒。五秒。
「それだけですか」——《ヴェスタ》月二十五日に、ルナは同じ言葉を使った。あのときも、俺は「それだけだ」と答えた。
今日も、同じ答えを返せる。
「......それだけだ」
ルナが、俺を見たまま、少しの間、黙っていた。
「そっか」
---
夕刻近く、ルナが帰り支度をしていた。
コートを取ろうとして、やめた。
「ししょー」
「なんだ」
「......なんか、怖いです」
俺は、ルナを見た。
「怖い、というのは?」
「なんか——査定が近づいてる感じがして。よくわからないんですけど、なんか、怖い感じがします」
「感知しているのか」
「感知というか......なんか、雰囲気、みたいな感じで。ししょーの精神波が、最近少し、張ってる感じがするので」
俺は、その言葉を受け取った。
自分の精神波が「張っている」と、ルナに感知されていた。俺が意識してコントロールしているつもりの領域を——ルナは外側から読んでいた。
「怖いのは何故だ」と俺は聞いた。
「......ししょーに、迷惑をかけたくないです」
「なぜそう思う」
「なんか、わたしのせいで、ししょーが困ることがあったら嫌だから」
俺は、椅子から立ち上がった。
棚の方へ歩いて、少しの間、棚を見た。遺物たちが、いつも通りに呼吸していた。
「ルナ」
「はい」
「お前のせいで、俺が迷惑を被ったことはない」
ルナが、少しの間、黙っていた。
「......ほんとですか」
「本当だ」
「ししょーが、ほんとのことを言ってるかどうか、わかりますか?」
「わかるか」
「......なんか、精神波で、嘘ついてる人はわかる気がします。嘘ついてるとき、なんか、少しざわざわする感じがして」
「今、俺の精神波はどうだ」
ルナが、少しの間、感知した。
「......ざわざわしてないです」
「そうだろう」
「......ほんとに、迷惑じゃなかったんですか」
「お前が来てから、俺の胃は痛くなり続けているが——それはお前のせいではない」
ルナが、くすっと笑った。
「それ、わたしのせいですよね」
「そうとも言える」
「どっちですか」
「......まあ」
「まあ、ってどっちですか」
「お前のせいかもしれない。しかし、迷惑だとは思っていない」
* * *
ルナが、少しの間、それを受け取った。
「......ありがとうございます、ししょー」
「礼はいい」
「でも、言いたいので言いますね」
「わかった」
ルナが、コートの前を合わせた。螺旋階段の方へ向かいかけて、少し止まった。
「ししょー」
「なんだ?」
「査定、絶対通ります。わたし、頑張るので」
「お前の頑張りだけが査定を決めるわけではないが」
「でも、頑張ります」
「......そうしろ」
「はい!」
ルナが、螺旋階段を上がっていった。
途中で一段踏み外した音がした。いつも通りだった。
* * *
地下三階に、静寂が戻った。
遺物の棚が、いつも通りに呼吸していた。
俺は椅子に座って、少しの間、棚を見た。
「お前のせいで迷惑を被ったことはない」——本当だ。
ルナが来てから、胃は痛くなった。眠れない夜が何度かあった。報告書の設計に時間がかかった。在庫目録の文字が変わった。城下町に久しぶりに行った。星を三十秒見た。
それは全部——迷惑ではない。
迷惑ではない、という言葉の意味を、俺は今夜初めて、正確に受け取った気がした。
「お前のせいかもしれない。しかし、迷惑だとは思っていない」——あの言葉は、嘘ではなかった。
今まで言えなかった言葉の中で、初めて——全部、本当だった。
俺は在庫目録を開いた。
《オーレン》の月、十二日。
・来歴読解応用課題:答え合わせなし。
「娘さんに渡せなかったんですね」——正確。ルナが「怖い」と言った。
「ししょーに迷惑をかけたくないから」。
「お前のせいで迷惑を被ったことはない」と言った。
ルナが精神波で確認した——「ざわざわしてない」。本当だった。
迷惑だとは思っていない。今夜、その意味を初めて正確に受け取った。
・机の端の石:六個。
・査定まで:二十日。
ページを閉じた。
二十日。
まだ、やることがある。
しかし今夜は——この記録だけで、十分だった。




