第28話 報告書の下書きと、ルナが的外れに着地した話
《オーレン》の月の七日。
査定まで、二十九日だ。
最終査定の報告書の下書きを、俺は三日前から始めていた。
中間報告書とは性質が違う。中間は「現在進行形の成果」を示す報告書だった。最終は「契約期間全体を通じての評価」だ。《フォルナ》月の九日から——ルナが地下三階に来た最初の日から、今日まで。その全体を、一つの物語として設計する。
「物語」という言葉は、正確ではない。
「嘘のない嘘」として設計する、という方が正確だ。
* * *
今日の訓練は、来歴読解の応用課題だった。
遺物を二つ並べて、どちらの所有者の方が「感情が強かったか」を感知で比較する——判断を伴う感知の訓練だ。
「左の方です」とルナが言った。
「理由は?」
「なんか、右の方は静かな感じで——所有者の人が、あまり感情を出さない人だった気がします。左の方は、持ってた人がすごく感情的で、喜んだり怒ったりを繰り返してた感じ」
「正確だ。今日の課題はここまでだ」
「もう終わりですか? 早いですね」
「今日は、報告書の作成作業がある」
ルナは、机の上に広がっている書類に目をやってから、続けた。
「ああ、そういえば最近机に紙が多いですよね」
「そうだな」
「査定の、ですか?」
「そうだ」
答えながら、散らばった書類を、分類ごとにまとめていく。
「いつですか、査定」
「来月の初旬だ」
「来月......」 ルナが、少し黙った。「あと一ヶ月もないんですね」
「そうだな」
「ししょー、大丈夫ですか」
「何がだ」
「なんか、心配で」
ほんとに心配そうにうつむいている。
言葉で言っても、伝わらんか。しょうがない。
俺は、ルナの頭にそっと手を置いて、言った。
「心配するようなことはない」
「ほんとですか」
「本当だ」
やっと安心したように、ルナは微笑んだ。
大丈夫。絶対だ。
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午後、ルナは在庫目録の補完作業をしていた。
新しい冊の目録に、《アルデン》月からの遺物の出し入れ記録を転記する作業だ。俺が口頭で告げる番号をルナが書き取る、という形で進めていた。
途中で、ルナが立ち上がった。
「ししょー、インク補充してきます」
「棚の左から二番目だ」
「はーい」
ルナが、棚の方へ歩いていった。
俺は、下書きの紙に向き直った。第三節を書いていた。「訓練対象の能力の現在値と、契約開始時点からの変化量」を記述する節だ。
「遺物感知の実務応用:壁龕事案における早期感知(実績記録済み)、封印更新時の状態変化の実時間感知(《ノクス》月)、来歴読解の習得(現在進行中・一人の所有者の精神波残滓の感情質まで識別可能)——以上三点を主要実績として記録する。なお、屋外環境における感知の選択的制御についても......」
「ししょー、これ——」
ルナが、インク壺を持って戻ってきていた。俺の机の端に立って、下書きの紙を、上から覗き込んでいた。
俺は、紙の上に手を置いた。
だが一瞬、遅かった。
「......見てしまいました」とルナが言った。
「そうか」
「わたしのことが、書いてあります」
「報告書の下書きだ」
ルナが、インク壺を机の横に置いた。立ったまま、少し考えた。
「私も読んでいいですか?」
「ダメだ」
「そっか......ダメですか」
* * *
しばらく、ルナが黙っていた。
俺は、下書きを続けた。手を動かしながら、ルナの精神波を確認した。混乱はない。怒りもない。ただ、何かを考えている。
「ししょー」
「なんだ」
「さっき見えたところ——わたしのこと、すごくいいことが書いてありましたよ」
「報告書だからな」
「でも、わたし、あんなにすごくないですよ」
「報告書として適切な内容だ」
「......『報告書として適切』って、どういう意味ですか」
俺は、羽根ペンを動かすのを止めた。
どう答えるか。
「事実を記述した」は正確ではない。あれは事実を素材にして、印象を設計した文章だ。「嘘のない嘘」だ。「お前の成長を適切に表現した」も、正確ではない。「適切に表現した」のは成長の一側面だけで、精神干渉ゼロという事実は巧みに欄外に置いてある。
「査定官に向けた言葉で書いてある」と俺は言った。「日常の報告書より、精度の高い言葉を使う」
「精度の高い言葉......」 ルナが、それを受け取った。「じゃあ、わたしのことを、正確に書いてくれてるってことですよね」
「そうだ」
「......ししょーって、わたしのこと、ちゃんと見ててくれてるんですね」
俺は、何も言わなかった。
「最初の頃は、なんか、在庫管理の道具みたいに見てるのかなって思ってたんですよ。でも——ちゃんと見ててくれてたんですね。こんなに細かく」
「......訓練の記録だ」
「でも、ここまで書いてくれるって、ちゃんと見てないと書けないですよね」
俺は、羽根ペンを持ったまま、何も言えなかった。
ルナが、「ちゃんと見ててくれてた」と言っている。
正しい。
しかし、正しくない。
ちゃんと見ているのは、本当だ。ルナの感知能力を、俺は誰よりも正確に把握している。何ができて、何ができないか。どこが伸びて、どこが止まっているか。全部、見ている。
しかしそれは——査定を通過するために見ている。
ルナのために見ているのか、査定のために見ているのか——俺には、今、その区別がつかない。
「......そうだな」と俺は言った。
* * *
ルナが、満足そうに「じゃあ、目録の続きをします」と言って、自分の作業に戻った。
何事もなかったように。
「ちゃんと見ててくれてた」で完結して、それ以上は何も聞かなかった。
俺は、下書きに目を落とした。
第三節の続きを書こうとして、羽根ペンが止まった。
「報告書として適切な内容だ」と言った。
正しい。
「訓練の記録だ」と言った。
正しい。
「そうだな」と言った。
——正しいのか。
わからない。
わからない、という状態が、《フォルナ》月の初週から変わっていない何かのような気がして、俺は羽根ペンを置いた。
* * *
夕刻、ルナが帰り支度をした。
「ししょー、査定、うまくいきますよ」
「なんだそれは。根拠はあるのか」
「なんか、そういう感じがします」
「感知的根拠か」
「感覚的根拠です。でも、わたしの感覚、だいたい当たるので」
「それは、根拠にならないぞ」
「でも——ししょーがちゃんと見ててくれてるなら、大丈夫だと思います。ちゃんと見てる人が書いた報告書は、ちゃんとした報告書だから」
俺は、それを聞いた。
「ちゃんと見てる人が書いた報告書は、ちゃんとした報告書」——ルナにとって、それは自明だ。見ていれば、書ける。書けたものは、正しい。
その論理の中に、「嘘のない嘘」が入る余地はない。
「......ああ」と俺は言った。
「おやすみなさい、ししょー。あと一ヶ月、頑張ってください」
「ああ、おやすみ」
* * *
螺旋階段の足音が、遠くなった。
地下三階に、静寂が戻った。
俺は、下書きの紙を見た。
第三節の途中で止まっていた。羽根ペンが、インク壺の横に置いてある。
「ちゃんと見てる人が書いた報告書は、ちゃんとした報告書」——ルナの言葉が、まだ地下三階に残っていた。
俺は在庫目録を開いた。
《オーレン》の月、七日。
・来歴読解・比較課題:正確。「感情が強かった方」の判断まで成立。
・報告書の下書きをルナに見られた。「わたし、こんなにすごくないですよ」——「報告書として適切な内容だ」と答えた。「ちゃんと見ててくれてるんですね」——「そうだな」と答えた。どちらも、嘘ではない。どちらも、全部ではない。「ちゃんと見てる人が書いた報告書は、ちゃんとした報告書」——ルナが言った。その論理の中に、俺のやっていることが入るかどうか、わからない。
今日は、わからないまま終わる。
・机の端の石:六個。
・査定まで:二十九日。
ページを閉じた。
下書きを手に取って、続きを書いた。
第三節。第四節。最後の節まで。
書けた。
全部、事実だ。
それでも。




