第27話 城下町と、食感知が爆発した話と、ギルがパンを買った話
《カルン》の月の二十六日。
朝、ルナが地下三階に降りてきた。
「ししょー、今日の訓練は?」
「城下町に行く」
ルナが、一瞬、固まった。
「......え?」
「城下町だ。中庭の次のステップとして、人と物が混在する環境での感知制御を試す」
「城下町! 城壁の外ですか?」
「そうだ」
「ししょーと一緒に?」
「一人で行かせるほど制御が安定していない」
「やった!!」
「喜ぶようなことではない」
「でもやった!!」
* * *
城下町は、城壁の南門から歩いて十分ほどだ。
俺は滅多に行かない。必要がないからだ。食料の調達は城の厨房から、書類の消耗品は城の備品室から、それ以外に必要なものは——ほとんどない。
ルナは城下町に慣れている。パン代のパンもここで買う。帰り道に石を拾ったのも城下町の石畳だ。
南門を抜けると、石畳の通りが伸びていた。
《カルン》の月の午前だ。市場が開いている。人の往来がある。食べ物の屋台が出ている。どこかで肉を焼く匂いがした。パン屋の窓から、焼きたての熱気が漏れていた。
「......すごくいっぱいありますよ、ししょー」とルナが言った。
「《アルデン》の月の中庭と比べてどうだ」
「全然違います。中庭の十倍くらいある感じ」
「整理しろ。今日の課題は『移動しながら感知を絞る』だ。歩きながら、食品の匂いのみに限定して追跡しろ」
「歩きながら?」
「止まっていては実戦にならない」
「......やってみます」
* * *
ルナが、歩きながら目を細めた。
「......パン屋が、前に一軒。横に一軒。うしろに——うしろにもある。あ、屋台で肉を焼いてる。脂がのってる感じ。あの角の先に、果物屋がある。《カルン》の月だから、夏の果物が——」
「精神波は、どうだ? 感じるか?」
「え?」
「食品の匂いと同時に、周囲の精神波を感知できるか」
「両方同時に......」 ルナが、少し眉を寄せた。「む、難しい。食品の方に引っ張られます」
この、食いしん坊め。
「優先順位をつけろ。食品の匂いは背景に流して、精神波を前面に出せるか」
「......やってみます」
少し歩いた。石畳の通りを、人の流れに沿って歩いた。ルナが時々つまずきそうになりながら、目を細めていた。
「......できてきた気がします」とルナが言った。「食品の匂いを、なんか、音楽みたいにして。ずっと流れてるけど、意識しなくていい感じにしたら、精神波の方が見えてきた」
「音楽? 具体的にはどういうことだ?」
「なんか、BGMみたいな感じ。邪魔じゃないけどある感じ」
「報告書に書けない表現だが——機能しているならいい。続けろ」
ルナは、ルナなりの解釈でうまく乗り切ってくれそうだ。
あとは、そのBGMに意識が引っ張られないといいんだが......
たぶん、引っ張られる方に、金貨をかけてもいい。
絶対だ。
* * *
市場の中ほどまで来たとき、ルナが急に足を止めた。
「ししょー」
「なんだ? どうした?」
「あの、少し待ってもらっていいですか」
「何が?」
「あのパン屋、今朝焼いたのがまだあって——一番端のやつ、ちょっと焦げてるんですけど、その分バターが染みてて、すごくよさそうで」
俺は、ルナを見た。
ほらな。言ったろ?
「訓練中だ」
「わかってます。でも——」
「......何のパンだ」
「丸いやつです。表面がちょっと茶色くて、中はふわっとしてる感じで、バターと——あと蜂蜜も少し入ってる気がします」
俺は、パン屋を見た。
看板が出ていた。小さな店だ。窓から焼きたての蒸気が出ている。
「......行ってこい」と俺は言った。
「え、いいんですか!」
「二分で戻れよ。それ以上は待たない」
「はい!」
ルナが走っていった。俺は石畳の端に立って、市場の人の流れを見ていた。
久しぶりに、城下町にいた。
最後に来たのは——覚えていない。少なくとも今年ではない。去年でもないかもしれない。必要がないから来なかった。必要がないから、それでよかった。
《カルン》の月の城下町は、活気がある。夏の市だ。食べ物が多い。人が多い。精神波がいろんな方向から来る。それを俺は無意識に全部受け取って、全部整理して、全部遮断している。
ルナは遮断できない。受け取って、整理して、それだけで疲れる。
「BGMみたいにする」——ルナが見つけた方法だ。俺が教えた「絞る技術」の、ルナなりの応用だ。
悪くない。
* * *
ルナが戻ってきた。
その手にはなぜか、包み紙を二つ持っていた。
「はい、ししょーの分も」
「俺は頼んでいない」
「でもせっかく買ってきましたし」
「......」
まったく、しょうがないやつだ。
「ししょー、城下町来るの久しぶりですよね」
「そうだな」
「何年ぶりですか」
「数えていない」
「わかりません?」
「わからない」
「そっか」 ルナが、包み紙を差し出した。「食べながら歩いていいですか」
「......歩きながら食べるのか」
「歩きながら感知の訓練をしながら食べます」
「三つ同時にできるのか」
「やってみます」
そう息巻いたが、大丈夫ですか、お嬢さん。
* * *
結果として、三つは無理だった。
食べているとき、食感知が「自分が今食べているもの」に全振りになった。「バターと蜂蜜が混ざってる感じ、表面の焦げのところが香ばしくて、中がふわっとしてて——最高です」とルナが言い始めて、訓練にならなかった。
「食べ終わってから訓練を再開しろ」と俺は言った。
「はーい。ししょー、どうですか」
「......悪くない」
「ですよね! ここのパン、おいしいんですよ。いつも帰り道に見るんですけど、タイミングが合わなくて。今日初めて買えた」
そういって、もぐもぐと子リスのように頬を膨らまして、幸せそうに食べていた。
ほんと、幸せ絶頂だな、こいつは。
「そうか」
「ししょー、また来たいですか、城下町」
「訓練として意味があれば来る」
「じゃあ、また来れますね」
「お前が訓練として有用な感知をすれば来る」
「じゃあ頑張りますね!」
お前、ただパンが食べたいだけだろ?
そうだよな?
絶対、そうだよな?
* * *
食べ終わった後、訓練を再開した。
午後の課題は「特定の人物の精神波を市場の中で追跡する」だ。俺が指定した方向に向かって歩く人物の精神波を、ルナが追いかける。
「あの、青い上着の人ですか」
「そうだ。見失わず追え。ただし目ではなく感知で」
少し、眉間にしわを寄せて集中するルナ。
「......感知で。えっと——青い上着の人、精神波は——落ち着いてる感じ。なんか、買い物リストを頭の中で確認してる感じがします。この先の八百屋に行くつもりかな」
「追い続けろ」
「......八百屋に入った。中で——あ、値段を見て少し迷ってる感じ。買おうかどうか」
「そこまで読めるのか」
「読めてる感じがします......!」
「止めろ」と俺は言った。
「え?」
「特定個人の精神波を深く読むな」
「......あ」 ルナが、手を引くような動作をした。「そっか。プライバシー?」
「技術的な問題だ。特定個人への精神波の集中は、相手に感知される可能性がある。高度な術師が相手なら警戒される」
「なるほど......。じゃあ、どこまでなら読んでいいんですか」
「移動方向と感情の概要まで。内容に入るな」
ルナは納得したように頷いた。
「わかりました。......でも、読めちゃうのが問題なんですね」
「そうだ」
「......なんか、すごいですね、わたし」
そういって、ドヤ顔で腰に手を当てている。
「自分で言うな」
軽く額を小突いた。
「でも、ししょーが驚いてますよね」
「驚いていない」
「いえ、驚いてました!」
「......いや、驚いてない」
そんなやりとりで、ルナが、くすっと笑った。
* * *
帰り道、南門の手前でルナが石畳の隙間をのぞき込んだ。
「ししょー、いい石は落ちてませんか」
「探しながら歩くな、転ぶぞ」
「大丈夫です。あ——これ」
ルナが、石畳の隙間から平たい石を取り出した。薄い灰色の、きれいな楕円形の石だ。
「これ、何の石ですか」
「頁岩だな。薄く割れる性質がある。その形は珍しい」
「へえ。持って帰っていいですか」
「石を持って帰るな、というルールはないぞ」
「じゃあ持って帰ります」
「そうしろ」
ルナが、石をコートのポケットに入れた。
* * *
地下三階に戻ると、いつもの空気が戻った。
遺物の匂い、松明の光、静寂。机の端の石、五個。
「ただいまです、地下三階」とルナが言った。
「......ただいまと言う場所か、ここは」
「なんか、そんな感じがします」
ルナが、コートのポケットから灰色の石を出した。机の端に置いた。茶色が二個、白っぽいの一個、蛇紋岩一個、石英一個——そして、灰色の楕円の頁岩一個。
六個になった。
「石、増えましたね」
「そうだな」
「ししょー、今日の訓練、どうでしたか」
「及第点だ。BGMとして雑音を分けるというお前の感知の応用は記録に値する。特定個人への集中は——今日の段階では及第点の範囲内だ。次回以降の課題にする」
「はい!」 ルナが、鞄を肩にかけた。「ししょー、また城下町に行けますか」
「進捗次第だ」
「じゃあ頑張ります」
「そうしろ」
「あと——今日、ありがとうございました」
「訓練だ。礼はいい」
「でも」
「わかった。受け取っておこう」
ルナが、螺旋階段を上がっていった。
* * *
地下三階に、静寂が戻った。
俺は在庫目録を開いた。
《カルン》の月、二十六日。
・城下町訓練:初回。食感知のBGM応用(自発的)——記録に値する。
・特定個人への精神波の集中:今回は指摘・止めた。次回の課題。
・市場で人物追跡:感情の概要まで読んだ——「買おうかどうか迷ってる感じ」。
正確だった。パンを食べながら訓練は無理だった。
これは想定の範囲内。
・帰り道に頁岩を一個。石が六個になった。
・久しぶりに城下町を歩いた。最後にいつ行ったか、やはりわからなかった。
・机の端の石:六個。
・査定まで:三十七日。
ページを閉じた。
机の端の石が六個になった。
三十七日。
まだ、やることがある。




