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世界最強の精神熟達者、解除不能の師弟契約で無能少女を育てることになった俺の終わらない修行の日々  作者: ちとせ鶫
第5章 春の神の月と、審査結果と、ルナが初めて外に連れ出された話

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第26話 ルナが来歴を読んだ日と、ギルが12歳だった話

 《カルン》の月の十七日。


 朝、俺はD列の棚の前に立った。


 二段目、右から三番目。


 小さな木箱だ。縦横それぞれ手のひら大。角が擦れて丸くなっている。蓋の留め具が、片方だけ少し歪んでいる。歪みは最初からではなく——俺が十二歳のときに落として、そうなった。


 持ち込んだのは《カルン》の月だった。今と同じ月だ。訓練所に入所したとき、「私物は最小限に」と言われて、それでも手放せなかった一つ。


 今日、これを使うことにした。


 理由は、言葉にしない方がいい。


     * * *


 ルナが地下三階に降りてきた。


「おはようございます、ししょー」

「来るのが早いな」

「今日、なんか早く目が覚めました。夢を見て」

「どんな夢だったんだ?」


 なんとなく、予想はつくんだが、いちおう聞いてみた。


「おいしいパンを食べる夢です。食べ続けても食べ続けても終わらなくて、幸せでした」


 お嬢さん、予想通りの答えをありがとう。


「......そうか」

「ししょーって、夢を見ますか」

「見ないな、あまり」

「ほんとですか?」

「以前は見た。今は見ない。覚えていないだけかもしれないがな」


 ルナが、それを聞いて少し考えた顔をした。「以前は」という言葉が引っかかったのかもしれない。しかし、聞いてこなかった。

 どうせ見たところで、悪夢しかないだろうしな。俺は。

 そんな話なんて、つまらないだろ?

 だから、話しはしない。


「今日の訓練は?」と聞いた。

「来歴読解だ。今日は、新しい遺物を使う」

「どれですか?」

「D列、二段目、右から三番目だ」


     * * *


 ルナが、D列の棚の前に立った。


「これですか?」

「そうだ」


 ルナが、木箱に手を伸ばした。両手でそっと持ち上げた。


「重くないですね」

「中は空だ」

「空なんですか?」

「そうだ」


 ルナが、木箱を机の上に置いた。椅子に座って、両手を上に乗せた。目を閉じた。


 俺は、机の端の椅子に座った。羽根ペンを持った。記録を取る体勢だ。


 しばらく、静かな時間が流れた。


     * * *


「......なんか」とルナが言った。

「なんだ?」

「なんか、これ——人が一人しかいない感じがします」

「そうだな」

「今まで複数人の遺物ばかりだったので、なんか新鮮です。一人の人の感じが、はっきりしてる」


 ここまでは順調だ。より深く、感じられるか、続きを促す。


「感知できるか」

「......えっと、若い感じがします。すごく若い。子どもか、若い人か——」


 ルナが少し止まった。


「......子ども、かな。なんか、子どもみたいな感じもして」


 俺は、羽根ペンを動かさなかった。


「どんな子どもだ」と聞いた。

「えっと......なんか、静かな感じ。あまり動かない感じ。でも——うーん、なんか、この箱のこと、すごく大事にしてた感じがします。大事にしてたから、精神波が、なんか、染み込んでる感じ?」

「それだけか? もっとほかにはないか?」

「えっと.......怖いのかな、とも思いました。なんか、ちょっと怖がってる感じが、あるような気もして。でも、大事にしてる感じの方が強いです」


     * * *


 俺は、少しの間、何も言わなかった。


「......正確だ」と俺は言った。

「え?」

「その感じ取ったその遺物の来歴は、正確だと言ったんだ」

「ほんとですか」 ルナが、目を開けた。「じゃあ、及第点ですか」

「及第点だ」

「やった! あの、ししょー——」

「なんだ」

「この箱、誰のものですか。なんか、実在の人の感じがすごくして」


 俺は、羽根ペンを置いた。するどいなこいつは。


 聞かれるとは思っていた。聞かれないとも思っていなかった。今日これを使うことにしたとき、聞かれれば答えると、決めていた。


「俺のものだ」と言った。


「......え?」

「俺が十二歳のときに持ち込んだ。訓練所に入所したとき、持ってきた」


 ルナが、机の上の木箱を見た。それから俺を見た。それから木箱に戻った。


「......ししょーの」

「そうだ」

「わたしが感知していたのは、ししょーの......」

「十二歳のときの俺の精神波の残滓だ」


     * * *


 ふたたび、静かな時間が流れた。


 ルナが、木箱を見ていた。俺は羽根ペンを机の上に置いたまま、在庫目録のページを開いていたが、何も書かなかった。


「......もう一回、感知してもいいですか」とルナが言った。

「訓練として?」

「......訓練としてでも、いいです。もう一回、感知したくて」

「別にかまわんが」


 ルナが、また目を閉じた。

 今度は、少し長かった。


 一分ほど経って、ルナが目を開けた。

 何も言わなかった。

 俺は、ルナを見た。


「どうだ?」

「......」


 ところが、ルナは沈黙したまま、何か感傷に耽っている。


「言葉にしろ」

「......大事にしてたんですね」とルナが言った。


 俺は、何も言わなかった。


「ししょーが十二歳のとき——この箱、ずっと持ってたんですよね」

「訓練所に入るとき、持ち込んだ」

「その前から?」

「......ああ」

「何が入ってたんですか」

「今は空だ」

「昔は?」


 俺は、少しの間、考えた。


「......小石が入っていた」

「石?」

「三個。川で拾ったものだ」


 ルナが、机の端の石を見た。五個、並んでいた。茶色が二個、白っぽいの一個、蛇紋岩一個、石英一個。


 ルナが、また木箱を見た。


「......石は、今どこに?」と聞いた。


「捨てちまったよ。訓練所で、最初の年に」

「なんでですか?」

「必要ないと思った。それだけだ」

「......そっか」


     * * *


 しばらく、互いに何も言わなかった。


 ルナが、木箱の蓋を、そっと指先でなぞった。触るだけで、開けなかった。


「ししょー」

「なんだ」

「なんか、ごめんなさい」

「なぜ謝る」

「なんか......わたしが感知したから、ししょーが言わなくていいことを言わせてしまった気がして」

「聞かれれば答えると、決めていた。気にするな」

「……ししょーが決めたんですか」

「そうだ」

「なんで」


 俺は、少しの間、考えた。


「来歴読解の訓練には、感知者が読んだ内容を確認できる遺物の方が有用だ。所有者がわかっている遺物であれば、ルナの感知の精度を俺が検証できる」

「......それだけですか?」

「訓練の話をしている」

「そうですね」 ルナが、少し笑った。「でも、ししょー、ありがとうございます」

「礼はいい」

「でも、言いたいので言います」


 ルナなりに気を使ってくれたのだろう。

 それについては、素直に感謝しておこう。

 悪くない。そう、悪くはない。


     * * *


 夕刻、ルナが帰り支度をした。


「ししょー、石、捨てなければよかったですね」

「今更だ」

「でも——」 ルナが、机の端の石を一個手に取った。石英だ。「ししょーの石は、ここにありますよ」

「俺の石ではない」


 そう答えても、今日のルナは一歩も引かなかった。

 こういうときは、頑固だからな。こいつは。


「でも、ここにあります」

「お前が持ってきたものだ」

「でも、ここにあります」 ルナが、石英を丁寧に机の端に戻した。「わたしが持ってきたけど、ここにある。それはししょーの石だと思います」


 俺は、それを聞いた。

 何も言わなかった。


「おやすみなさい、ししょー」

「ああ」


     * * *


 螺旋階段の足音が、遠くなった。


 地下三階に、静寂が戻った。


 遺物の棚が、いつも通りに呼吸していた。D列二段目の木箱は、棚に戻っていた。机の端の石は、五個、並んでいた。


 俺は在庫目録を開いた。


 《カルン》の月、十七日。

 ・来歴読解訓練:D列二段目の木箱使用。

         ルナの感知——「子どもみたいな感じ」「静かな感じ」

         「大事にしてた感じ」「怖がってる感じ」——正確だった。

         及第点。所有者を告げた。自分で決めて、告げた。

         「大事にしてたんですね」——何も言えなかった。

         石の話をした。捨てたと言った。

         「捨てなければよかったですね」——そうかもしれない。

         「でもここにあります」——そうかもしれない。

 ・机の端の石:五個。

 ・査定まで:四十六日。


 ページを閉じた。


 D列二段目の木箱は、今日ルナが感知した。十二歳の俺の精神波の残滓が、ルナに読まれた。


 「怖がってる感じ」——正確だ。


 訓練所に入った最初の夜、あの木箱を持ったまま眠れなかった。中に石が三個入っていた。川で拾った石だ。誰かに貰ったものではない。ただ、きれいだと思って、拾った。


 最初の年に、捨てた。


 必要ないと思った。


 ——必要ないと、思った。


 今でも、そう思っている。

 たぶん。

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