第25話 審査結果が来た日と、ルナが何も知らなかった話
《カルン》の月の四日。
朝、俺は地下三階に降りる前に、四階の掲示板の前を通った。
《アルデン》の月の十五日に受理された中間報告書の審査結果が、《カルン》の月の初旬に通知される——書記にそう言われていた。掲示板に名前が出るか、直接封書が届くかどちらかだ。
掲示板の前に、術師が数人立っていた。
俺は、一歩下がった。人の後ろから、ボードを確認した。
中段の左から三列目に、俺の名前があった。
《「クインシー、E・G・——中間報告審査:通過」》
それだけだった。
まあ、当然だな。
* * *
廊下に出た。
《カルン》の月の朝だ。夏の神の月——一年の半ばを過ぎた月だ。廊下の窓から、外の光が差し込んでいた。《アルデン》の月より明るく、《ノクス》の月の十五日に窓の前で立ったときより、ずっと長い光だった。
通過した。
中間報告書の審査が、通過した。六枚の紙。三つの実績。「精神干渉ゼロ」を周縁化したフレーミング。嘘は一文字もない——しかし嘘だった、あの報告書が、通過した。
査定まで、五十九日だ。
俺は、廊下を歩いた。螺旋階段の方へ向かった。歩きながら、特に何も考えなかった。感情が動いているかどうか、よくわからなかった。「通過した」という事実は、あった。それ以上のことは——まだ、何も。
* * *
地下三階に戻った。
遺物の棚が、いつも通りに呼吸していた。松明の光。埃の匂い。机の端の石、五個。
俺は椅子に座った。羽根ペンを手に取って、在庫目録を開いた。今日の日付を書いた。《カルン》の月、四日。
ルナが来るまで、少し時間がある。
* * *
午前中、ルナが地下三階に降りてきた。
「おはようございます、ししょー」
「来るのが遅いぞ」
「途中で厨房の匂いがして——今日の昼ごはん、シチューですよ。根菜と鶏が入ってて、あとなんか香辛料が強い感じで」
「どうでもいいだろう、厨房の献立なんて......」
「でも気になりませんか?」
「ならないな。お前ほど食いしん坊じゃないんでな」
「ししょーは感知できないからわからないと思いますけど、すごくいい匂いなんですよ」
「昼まで待て。そうしたら食べていい」
「はーい」
ルナが、コートを棚に掛けた。今日は薄いコートだ。《カルン》の月になってから、ルナの服装が一段軽くなった。
「今日の訓練は?」と聞いた。
「来歴読解の続きだ」
「はい!」
* * *
今日で、来歴読解訓練は十二日目だった。
最初の一週間は「何かいる、止まり」だったが、先週から「誰かいた感じ」まで進んだ。人間の残滓と、物品の残滓の区別ができるようになってきた。
今日の課題は、B列の端にある小箱だ。薄い金属製で、内側に細かい彫刻が入っている。百年以上前の遺物で、精神波の残滓が比較的はっきり残っている——ただし複数の人間が触れた痕跡がある。それを「一人ずつ分けて読む」訓練だ。
「この箱だ。やってみろ」
「はい」
ルナが、小箱を机の上に置いた。両手で持って、目を閉じた。
しばらく、沈黙があった。
「......複数いますね」とルナが言った。
「そうだ。いいぞ。何人いる?」
「えっと......三人、か四人。なんか、重なってる感じがして、はっきりわからないです」
「重なっている、というのは時間的な重なりか、印象の重なりか、どっちだ?」
「......時間的な方だと思います。なんか、同じ場所に別の人が次々に触れた感じ、かな。洗い物のバケツに、何人かの手が入ったみたいな感じ」
「悪くない比喩だ」
「ほんとですか!」
「時間的な重なりを感知できた。今日の訓練の目的はそこだ」
「じゃあ、及第点ですか」
「まあな」
「やった!」
* * *
昼になった。
ルナが「シチュー食べに行っていいですか」と聞いた。今日はいつもより食堂が混んでいるらしく、少し待つかもしれないと言った。
どうせ、ダメだっていっても、何が何でも行くだろうな。
そんな必死なルナがいつもどおりで、先ほどの訓練の成長ぐあいとのギャップがおかしかった。顔には出さないがな。
「行け。行ってこい。」と俺は言った。
「ししょーはどうしますか」
「ここにいる」
「また昼ごはん食べないんですか」
「パンでも食うさ」
「持ってきたんですか?」
「......今日は持っていない」
「ですよね」 ルナが、鞄をごそごそした。包み紙が出てきた。「はい。今日は硬いパンじゃなくて、柔らかいやつです。バターが入ってて、昨日の帰りに買いました」
そういって、パンが入った包み紙を渡してきた。俺は素直に受け取る。
「......食堂にいくつもりだったのに、なんで持ってるんだ?」
「なんか、持ってこようかなって思ったので」
「理由になっていないぞ」
「ししょーが昼ごはん食べないといけないので。これ食べといてください。わたし、シチュー食べてきますね!」
ルナが、螺旋階段を上がっていった。いつもより、ウキウキな足音な感じだった。
俺は、包み紙を手に取った。
バターの匂いがした。柔らかいパンだ。
一口食べた。
悪くなかった。
* * *
しばらくして、ルナが戻ってきた。
「シチュー、すごくよかったです。根菜がほろほろで、鶏がやわらかくて——」
このままだと、小一時間は感想をべらべらと話してそうなので、途中で遮った。
今日一、幸せそうな顔しやがって、こいつは。
まあ、美味しかったんなら、よかった。
「訓練の続きだ」
「はい!」
午後は、来歴読解の口頭報告練習をした。感知した内容を「報告書として機能する言葉」に変換する訓練だ。ルナが午前に感知した小箱について、書類形式で報告させた。
「B列末端、金属製小箱。来歴:複数人が触れた痕跡あり、推定三〜四名。接触は時系列的に重なっており、単一人物の継続的使用ではなく、異なる時点での複数人による使用が推測される。各人の精神波の質:一名は強い感情を伴う(悲しみ系、詳細不明)、残りは比較的穏やか。遺物自体の状態:安定、変質なし」
俺は、それを聞いた。
「及第点だ」と俺は言った。
「本当ですか!」
「複数人の識別・時系列の推定・精神波の質の区別——三つが揃っている。報告書として機能する」
「やったあ!」
「ただし、『悲しみ系、詳細不明』という記述は——」
「主観ですよね、やっぱり......」
いや、言い方次第だな。
書き方を修正しておこうと思う。
「そうだ。『感情的な乱れを伴う。種類の特定は困難』の方が適切だ」
「そっか。でも、悲しみって感じたんですよ。なんか、この人、すごく大事なものをここに入れてた気がして」
「その感知は、報告書に入れるな。記録として別途残せ」
「あ、そういう使い方があるんですか」
「報告書は客観的記述。感知の印象は別の記録に残す。両方が揃って、初めて有用な情報になる」
「なるほど......!」
* * *
夕刻近く、ルナが帰り支度をした。
「ししょー、今日の訓練、すごく進んだ気がします」
「そうだな」
「あと何日で、来歴読解、ちゃんとできるようになりますか」
「『ちゃんと』の基準による」
「えっと……一人の人の気持ちが、ちゃんと読めるくらい」
「早くて二ヶ月、遅ければもっとかかる」
「二ヶ月か......」 ルナが、少し考えた。「ししょー、査定って、いつでしたっけ」
「お前には関係ないぞ」
「でも、なんか心配で」
「訓練の進捗は計画内だ」
「ほんとですか?」
「本当だ」
そう聞いたルナはちょっとほっとしていた。心配だったのか。
「じゃあ、大丈夫ですね」 ルナが、コートの前を合わせた。「わたし、もっと頑張ります。来歴読解、早くちゃんとできるようになります」
「焦るな。今日できたことが、明日の基礎になる」
「......ししょーって、たまにすごいいいこと言いますよね」
こいつ、たまに生意気なこと言うな。
覚えておけよ。
いや、特別に今日のバターパンで帳消しにしといてやる。
今日だけだぞ。
「たまに、というのは余計だ」
「でも、たまにですよ」
「うるさい」
ルナが、くすっと笑った。
「おやすみなさい、ししょー」
「ああ」
* * *
螺旋階段の足音が、遠くなった。
地下三階に、静寂が戻った。
遺物の棚が、いつも通りに呼吸していた。B列の小箱は、来歴読解の訓練に使った痕跡もなく、静かに棚に戻っていた。松明が揺れた。
俺は、在庫目録を開いた。
《カルン》の月、四日。
・中間報告審査結果:通過。掲示板で確認、一人だった。
・来歴読解訓練:十二日目。
複数人の時系列識別・精神波の質の区別・
報告書形式への変換、すべて及第点。
・ルナが昼にバターパンを持ってきた。
「なんか持ってこようかなと思って」——理由になっていない。
食った。悪くなかった。
「査定っていつでしたっけ」——「お前には関係ない」と答えた。
訓練の進捗は計画内だ。本当だ。
・机の端の石:五個。査定まで:五十九日。*
ページを閉じた。
「一人だった」と書いた。
掲示板の前に、他の術師が何人かいた。俺は一人で端から確認した。通過を確認して、廊下に出た。誰とも話さなかった。
去年の中間報告は、提出自体がなかった。ルナが来る前は、報告書を書く対象がいなかった。その前の年も、その前も——ここ五年は、ずっとそうだった。
今年は、通過した。
ルナは何も知らない。知らないまま、「焦るな、今日できたことが明日の基礎になる」という言葉を「すごいいいこと」だと言って笑って帰った。
あの言葉は、嘘ではない。
しかし、それだけでもない。
——まあ、いい。
冷めた茶を一口飲んだ。
《カルン》の月の夜は、長かった。




