第24話 オルフェリアが来た日と、ルナが「師匠です」と言った話
《アルデン》の月の二十三日。
午後、螺旋階段の足音が聞こえた。
俺は棚のF列の奥にいた。先週から始めた来歴読解訓練の準備で、使えそうな遺物の選定をしていた。F列は古い年代の遺物が多い。来歴読解には、精神波の残滓がはっきり残っているものの方がいい。
足音の精神波を確認した。
オルフェリアだ。
「あ、白い花の匂いがする人」と、ルナが言っていた。今日は俺が棚の奥にいる。戻るのに、少し時間がかかる。
——ルナが、一人で対応することになる。
* * *
F列の奥から、声が聞こえた。
「失礼します。オルフェリア・ソル・ヴェインです。クインシー主任は——」
「あ、ししょーはあっちです。棚の奥の方で何かしてます」
「そうですか。……ルナさん、ですよね」
「はい! えっと、主任に用ですか?」
「定期確認です。少し待ってもよろしいですか」
「どうぞ! 座ります? 椅子、あっちにあります」
俺は、F列の作業を続けた。
二人の声が、棚越しに聞こえる。距離は七メートルほどだ。精神波の状態は、両者とも——穏やか。オルフェリアが警戒していないのは、いつも通りだ。ルナが警戒していないのも、ルナらしい。
「ルナさんは、今日はどんな訓練をされていたんですか」
「来歴読解訓練です。遺物から、昔持ってた人の記憶を読むやつ」
「来歴読解を。......もう、そこまで」
「でも、まだ全然できてないです。さっきも、箱から気配は感じたんですけど、内容まで読めなくて。『何か、いる』止まりでした」
「最初からそこまで読めたら、来歴読解ではなく別の能力ですよ」
「そうですか? じゃあ、今の段階でよかったんですね。やった」
ひと呼吸、間が開いた。
「ルナさんは、いつも、そうやって受け取るんですね」
「えっと、どういうことですか」
「できたことを、そのまま受け取る。できなかったことを、問題にしない」
「あー......。だって、できなかったことを悩んでも、できないままじゃないですか。できたことを積み重ねた方が、なんか、前に進む気がします」
「......そうですか」
* * *
俺は、手を止めた。
遺物の選定の手が、少し止まっていた。
「できたことを積み重ねた方が、前に進む気がします」——ルナが言う言葉としては自然だ。いつも通りのルナだ。しかし、オルフェリアの精神波が、その言葉を受け取ったとき——わずかに変化した。
「調査上の反応」ではない。
俺は、F列の作業を再開した。
「ルナさん、少し聞いてもいいですか」
「はい」
「クインシー主任は、ルナさんにとってどういう方ですか」
一秒も間がなかった。
「師匠です」
「......それだけですか」
「はい」
また、間があった。今度は、オルフェリアの側の間だ。
「師匠、ですか」
「はい。ししょーです」
「......難しい方ですか?」
「むずかしいというか——なんか、最初は怖い感じがしましたけど、今は違います。なんか、難しいけど、丁寧なんですよね。わかりにくい人ですけど、ちゃんとしてます」
「ちゃんとしている、というのは?」
「なんか......言葉にするのむずかしいですけど。ししょーって、わたしがわかるまで待ってくれるんですよ。急かさないし、バカにしないし。ちゃんと、わたしのことをわたしとして扱ってくれてます」
「わたしとして、というのは?」
「なんか——最初は、わたしのことを『使えない弟子』として見てる感じがしてたんです。でも今は、そうじゃない感じがします。なんか、わたしを見てくれてる感じ」
* * *
俺は、F列の棚の前で、少しの間、動かなかった。
「わたしを見てくれてる感じ」——それは、ルナの感知の話だ。ルナは精神波を読む。だから、相手が自分をどう見ているかを、言葉より先に感じ取る。
その感知が、「そうじゃない」と言っている。
「使えない弟子」から変わった、と言っている。
俺は、遺物を一つ棚に戻した。
「クインシー主任は——ルナさんのことを」とオルフェリアが言いかけた。
「大事にしてくれてると思います」とルナが言った。「たぶん、ご本人は認めないと思いますけど」
間があった。
「......そうですか」とオルフェリアが言った。
その「そうですか」の精神波が、棚越しに届いた。
「調査上の返答」ではなかった。
* * *
俺は、F列から戻ることにした。
遺物の選定は、また明日でいい。
棚の端を回ると、机の前の椅子にオルフェリアが座っていた。ルナは机の端に腰を掛けて、石を一個手に持っていた——石英だ。
二人が、俺に気づいた。
「お待たせしました」と俺は言った。
「いえ、ルナさんとお話ししておりました」とオルフェリアが言った。笑顔がある。今日の笑顔は、いつもより——少し、違う。「定期確認です。いくつか確認させてください」
「どうぞ」
ルナが、石英を机の端に戻した。「わたし、棚の巡回してきます」と言って、立ち上がった。
「ああ」
ルナが、C列の方へ歩いていった。
* * *
オルフェリアが、いくつかの質問をした。
来歴読解訓練の進捗。審査結果の通知の予定。中庭での屋外訓練の記録——月明け以降の記録を、一通り確認した。俺は答えた。全部、事実だ。嘘は一文字もない。
最後に、オルフェリアが少し間を置いた。
「ルナさんとの訓練は——うまくいっていますか」
俺は、その問いを受け取った。
「記録の通りだ」と俺は言った。
「そうですか」
「何か問題があるのか?」
「いいえ」 オルフェリアが、微かに首を振った。「ただ——」
「ただ?」
「ルナさんは、クインシー閣下のことを、よく見ていると思います」
俺は、何も言わなかった。
「調査上の話ではありません」とオルフェリアが続けた。「個人的な所感です」
「そうか」
「はい」
オルフェリアが、立ち上がった。書類を整えて、封筒に収めた。いつも通りの動作だ。
「では、失礼します」
「ああ」
螺旋階段の方へ歩きかけて、オルフェリアが少し止まった。
「閣下」
「なんだ」
「ルナさんは——いいお弟子さんですね」
俺は、その言葉を、少しの間、受け取った。
「......調査上の評価か」
「いいえ」 オルフェリアが、こちらを振り返らなかった。「個人的な所感です」
螺旋階段を、上がっていった。
* * *
しばらくして、ルナが棚の巡回から戻ってきた。
「ししょー、今日は異常なしでした。あ、オルフェリアさん、帰りましたか」
「ああ」
「何か言ってましたか」
「定期確認だ」
「そっか」 ルナが、机の端に戻った。石英を手に取って、また下ろした。「ししょー、オルフェリアさんって、なんか、怖い感じがしますよね」
「そうか」
「最初は——すごく、きっちりしてて、何を考えてるかわかんなくて、怖い感じがしたんですよ。でも今日は、なんか、少し違う感じがしました」
「どう違った?」
「なんか、ちゃんとした人なんだなって。すごくちゃんとしてる人で、でもそれだけじゃなくて、なんか——気にかけてる感じがしました。なんか」
「......そうか」
「ししょーとオルフェリアさんって、なんか、似てますよね」
俺は、ルナを見た。
「どういう意味だ」
「なんか、二人とも、ちゃんとしてるのに、それを全部出さない感じがします。なんか、ぜんぶ言わない感じ」
俺は、それを聞いた。
ルナの感知は、鋭い。遺物の残滓より、生きている人間の精神波の方が、ルナにはよく読める。
「......巡回の報告書を書いておけ」と俺は言った。
「はーい」
* * *
夕刻、ルナが帰った後、地下三階に一人になった。
俺は在庫目録を開いた。
《アルデン》の月、二十三日。
・オルフェリア来訪⑤:定期確認。ルナと二人で話した。
「師匠です」——一秒の間もなく。
「大事にしてくれてると思います。
ご本人は認めないと思いますけど」
——棚越しに聞こえた。
オルフェリアが「いいお弟子さんですね」と言った。
「個人的な所感」として。俺は何も言えなかった。
「そうだな」と言えばよかった。言えなかった。
ルナが「二人とも、ぜんぶ言わない感じがします」
と言った。正確だ。
・F列の来歴読解用遺物の選定:未完了。明日に持ち越す。
・机の端の石:五個。
・査定まで:六十六日。
ページを閉じた。
「そうだな」と言えばよかった。
——まあ、いい。




