第23話 在庫目録が終わった日と、ギルの文字が丁寧になっていた話
《アルデン》の月の十四日。
午後、ルナが在庫目録を棚に戻した。
いつも通りの動作だった。在庫目録を閉じて、立ち上がって、棚の定位置に収める。それだけだ。
しかし、ルナは棚の前で少し止まった。
「ししょー」
「なんだ?」
「読み終わりました」
俺は、羽根ペンを置いた。
* * *
在庫目録の読解が終わった。
《ヴェスタ》の月から始めた課題だ。《ノクス》の月を越えて、《アルデン》の月の十四日まで——三ヶ月と少し、かかった。
俺は、ルナを見た。
「全部か」
「はい。最後のページまで」
「......そうか」
ルナが、棚の前に立ったまま、こちらを見ていた。
「次の課題は?」と聞いた。
俺は、少しの間、何も言わなかった。
次の課題。
在庫目録の読解が今日終わる、という想定が、俺の中でずれていた。もう少しかかると思っていた。《アルデン》の月の二十日ごろ、という見込みだった。
つまり、今日の「次の課題」を、準備していなかった。
それを、悟らせないように、以下にも予定どおりだ。
そう、予定どおり。
「......今日は休め」と俺は言った。
「え?」
「課題なしだ。在庫目録の読解を完了した。今日はそれで十分だ」
「え、でも——」
「なんだ、師匠の発言に文句でもあるのか?」
「休んでいいんですか」
「休んでいいと言っている」
ルナが、少し考えた顔をした。それから、机の端に戻ってきて、石の横にしゃがんだ。
「じゃあ、ぼーっとします」
「そうしろ」
ああ、ルナはそういう子だったね、そうだった。
* * *
しばらく、互いに何もしなかった。
俺は、次の課題の設計を頭の中で組み立てていた。在庫目録の読解が終わった以上、次のステップが必要だ。在庫目録は「記録を読む」訓練だった。次は「遺物そのものから情報を読む」訓練に移行する。具体的には——遺物の「来歴」を感知する訓練だ。遺物には、かつてそれを所有した人間の精神波の残滓が残っている。その残滓を読み、いつ誰がどういう状態でその遺物に触れたかを感知する。
精神熟達者の高度な技術だ。本来、ルナには早すぎる。
しかし、ルナの感知能力は「本来」の範囲を外れている。試してみる価値がある。
ルナが、石英を手に取って、指でなぞっていた。
「ししょー」
「なんだ」
「在庫目録って、最初と最後で、なんか違うなって思いました」
「どう違うんだ、言ってみろ」
「なんか——文字が、最初の頃と最後の頃で、違う気がして」
俺は、手を止めた。
「違う、というのは、具体的に言ってみろ」
「最初の頃の文字って、なんか、きれいだけど硬い感じがして。最後の方——最近の記録の文字は、なんか......丁寧になった感じがします。上手いとか下手とかじゃなくて、なんか、気持ちが違う感じ」
俺は、少しの間、何も言わなかった。
在庫目録の文字が変わった。
俺は、そのことを自覚していなかった。書いている本人が気づかない変化を、三ヶ月分の記録を読み通したルナが、見つけた。
「......気のせいじゃないか」と俺は言った。
「ほんとですかー?」
「記録として客観的な根拠がない」
「でも、わたしはそう感じました」 ルナが、石英を机の端に戻した。「文字ってなんか、書いた人の気持ちが出ますよね。ししょーの文字、最初の頃より、今の方が——なんか、落ち着いてる感じがします」
俺は、それを聞いた。
落ち着いている。
最初の頃——《フォルナ》月の初週は、まだルナの扱いが決まっていなかった。方針が定まっていなかった。焦りではないが、試行錯誤の密度が高かった。それが文字に出ていたとすれば、ルナの言うことは——正しい、かもしれない。
「そうか」と俺は言った。
「ししょー、変わりましたか」
「......どういう意味だ」
「わたしが来てから、ししょー変わりましたか。わたしには、なんか、変わった気がするんですけど」
「お前の方が変わっている」
「それはそうですよ、わたしはたくさん変わった気がします」 ルナが、石英を見ながら言った。「でも、ししょーも、少し変わった気がします。最初の頃より、なんか......いる感じがします」
「いる感じ、というのは?」
「むずかしいんですけど——最初の頃って、ししょー、なんか、いないみたいだったんですよ。ここにいるのに、どこかにいないみたいな。今は、ここにいる感じがします」
俺は、椅子の背に凭れた。
「いないみたいだった」——それは、俺自身が意識してやっていたことだ。ルナが来た最初の頃、俺は距離を保つつもりだった。業務として扱う。訓練対象として管理する。感情の介入を最小化する。
それが、変わった。
いつからかは、わからない。
「......言えることと言えないことがある」と俺は言った。
「変わったってことは言えますか?」
「......まあ」
しぶしぶ認めた。
それが、ルナの今日の最大の勝利だったようだ。 こいつめ。
「じゃあ、いいです」 ルナが、少し笑った。「わかりました」
* * *
夕刻近く、俺は在庫目録の棚の前に立った。
ルナが読み終えた在庫目録を、手に取った。《フォルナ》月の九日から《ノクス》月の三十日まで。一冊分。
最初のページを開いた。
文字が、確かに、硬い。
中ほどのページ——《ヴェスタ》月のあたり——少し変わっている。
最後のページ。《ノクス》月の三十日。「同じ言葉で終わる、別の一年だった」と書いた日の記録。
文字が、確かに違う。
俺は、在庫目録を棚に戻した。
* * *
「ししょー」とルナが言った。
「なんだ」
「明日からの課題、決まりましたか」
「ああ」
「なんですか」
「遺物の来歴を読む訓練だ」
「らいれき?」
意味が浮かばなかったようだ。補足で説明する。
「遺物には、かつてそれを所有した人間の精神波の残滓が残っている。その残滓を感知して、いつ誰がどういう状態でその遺物に触れたかを読む」
「......それ、わたしにできますか」
「わからない。試してみなければわからない」
「ししょーが『わからない』って言うの、めずらしいですよね」
「そうか?」
「だいたい、できるかできないかを先に判断してから教えてくれてたので」
「来歴読解は、通常の精神干渉技術の延長にある。お前には精神干渉ができない。しかし、お前の感知能力は精神干渉の回路を経由しない別の経路で機能している。その経路で来歴が読めるかどうかは——前例がない」
「前例がない」 ルナが、それを繰り返した。「わたしが初めてやるやつ?」
「お前のような感知能力の術師が、過去にほぼいない。記録がない」
「なんかすごいですね」
「すごいかどうかは結果による」
「でも、ししょーが試してみようって思ったんですよね」
「そうだ」
少し考えたのち、ルナは言った。
「じゃあ、やってみます」 ルナが、立ち上がった。「楽しみです」
「楽しむような訓練ではないかもしれないが」
「でも、楽しみです」
* * *
螺旋階段の足音が、遠くなった。
地下三階に、静寂が戻った。
俺は、在庫目録を開いた。
《アルデン》の月、十四日。
・在庫目録の読解:完了。三ヶ月と少し。
ルナが「文字が丁寧になった」と言った。
「ししょーも変わった、いる感じがします」
——何も言えなかった。
「言えることと言えないことがある」と答えた。
それだけだった。
・明日から:遺物の来歴読解訓練。前例なし。
できるかどうかは、わからない。わからないまま、始める。
・机の端の石:五個。
・査定まで:七十五日。
ページを閉じた。
棚の奥に、来歴の読める遺物がある。明日、どれを最初に使うか——頭の中で棚番号を並べた。
一つ、思い当たった。
棚のD列、二段目、右から三番目。
ずっと前から、あそこにある。俺が十二歳のときに持ち込んだものだ。
来歴読解の最初の実験台としては——使わない方がいいかもしれない。
あるいは、使っていいかもしれない。
まだ、決めていない。




