第22話 新年の朝と、ルナが外に出たがった話
《アルデン》の月の一日。
創造の神の月。新しい年の、最初の日だ。
俺は、在庫目録の新しい冊を手に取った。
年が変わると、在庫目録は新しい一冊になる。去年の冊は棚の三段目に収めた。ルナが来てから始めた冊だ。《フォルナ》月の九日から《ノクス》月の三十日まで——一冊に、去年の全部が入っている。
新しい冊の一ページ目に、日付を書いた。《アルデン》の月、一日。
机の端の石が、五個、並んでいた。
* * *
朝、ルナが降りてきた。
「あけましておめでとうございます、ししょー!」
「ああ」
「新年の挨拶、それだけですか」
「それだけだ」
そう俺が言ったとたん、シュンとして、上目遣いで寂しそうな瞳を向けてくる。
なんだ? その物欲しそうな目は? おなかすいてるのか?
いや、違うな。新年の、あの言葉を言えってことか。やれやれ。
「もう少し......」
こいつ、俺が絶対言わないと、引く気はなそうそうだな。
やれやれ。
「あけましておめでとう」
「やった!」
ルナが、コートを棚に掛けた。今日のコートは少し薄い。《アルデン》の月は冬だが、《ノクス》の月に比べると夜が少しずつ短くなり始める。朝の空気が、わずかに違う。
「ししょー、今日の修行は?」
「在庫目録の読解を——」
「あの、一個いいですか」
「なんだ」
ルナが、少し改まった顔をした。
「新年のお願いなんですけど」
「なんだ」
「外で訓練したいです」
唐突なルナの発言に、俺は、羽根ペンを置いた。
* * *
「外、というのは?」
「地上、です。地下三階じゃなくて、外で、感知の訓練をしてみたいんです」
「理由は?」
「地下三階でできることは、だいたいできるようになってきた気がして」
「だいたいで済む話ではないが」
「でも——外だと、どうなるか知りたいんです。広いところで、いろんな匂いとか精神波とかが混ざってるところで、わたしの感知がどう動くか」
俺は、ルナを見た。
理由が、まともだ。
おお、感知の訓練をしてみたい!
思わず、嬉しさが顔に出そうになったじゃないか。
師匠泣かせなやつめ。
弟子が成長するのは、嬉しいに決まってるじゃないか。
地下三階は環境として管理されすぎている。遺物の精神波は既知のものが多く、外部からの干渉が少ない。訓練環境としては安定しているが、「実戦」からは遠い。ルナが外の環境で感知を試したい、という動機は——正しい。そうだな。
「......城壁内の中庭なら、許可は不要だ」と俺は言った。
「行けるんですか!」
「今日は午前に限る。午後は在庫目録の課題を続ける」
「はい! ありがとうございます、ししょー!」
「礼はいい。準備しろ」
* * *
中庭は、地下三階から螺旋階段を上がり、本館の廊下を抜けた先にある。城壁に囲まれた四角い空間で、石畳の地面に、季節ごとに異なる草花が植えられている。《アルデン》の月は、冬の草が低く茂っているだけで、花はほとんどない。
俺は滅多に来ない場所だ。
日の光が、久しぶりだった。
「ひろーい!」
ルナが、石畳の真ん中で両手を広げた。俺は中庭の入り口に立ったまま、それを見た。
「もしかして、地下から、遺物管理室を出るのが久しぶりなのでは?」
「うるさい」
「何日ぶりですか」
「数えていない」
「ししょー、日光って知ってますか」
「知っている」
「当たった感じは?」
「......問題ない」
ルナが、くすっと笑った。
こいつ、からかってやがるな。
あとで、覚えておけよ。
メロンパンを買うときはいつもより、1個減らしてやる。絶対だ。
.
俺は、中庭に一歩踏み出した。石畳の感触が、地下三階の床とは違う。少し冷たく、少し湿っている。《アルデン》の月の朝の中庭だ。当然だ。
* * *
「始めろ」と俺は言った。「今、この中庭で感知できるものを、全部言葉にしろ」
「全部ですか」
「全部だ。食品でも精神波でも匂いでも、感知できるものをすべて」
「......やってみます」
ルナが、目を閉じた。
少しの間、静かだった。
中庭には、風があった。石畳の隙間に草が生えていた。廊下の窓から、どこかの執務室の灯りが見えた。朝の城の空気は、人の往来が少なく、まだ静かだった。
「......多い」とルナが言った。
「なんだ」
「なんか、多いです。地下三階と全然違って——いろんな方向から、いろんなものが来てる感じがして」
「整理しろ。近いものから順に」
「近い順......。えっと、ここの石畳に、誰かが昨日食べたパンか何かのかけらが挟まってて。その匂いが——え、西側の厨房から、今日の朝食のスープの匂いがしてる。たまねぎと根菜が入ってる。あと、東棟の誰かが——精神波が少し乱れてる人がいます。怒ってる感じではなくて、焦ってる感じ」
「東棟の距離は」
「三十メートル......くらい?」
「建物を通り越してか」
「......はい」
俺は、少しの間、それを受け取った。
建物越しの三十メートルで、精神波の「焦り」を感知している。地下三階で遺物の状態変化を読んでいた能力が、人間の精神波にも適用されている。しかも感情の質を「怒りではなく焦り」と区別した。
これは——まずい。
まずい、という意味は、俺にとってではない。ルナにとっての話だ。この能力を適切に扱える枠組みを作らないと、ルナ自身が情報過多で消耗する。
「一度止めろ」と俺は言った。
「え? 止める?」
「感知を絞れ。今は食品の匂いのみに限定しろ」
「......えっと、どうやって絞るんですか」
「お前が食感知をどう制御しているか、言葉にしてみろ」
「せいぎょ......」 ルナが首を傾けた。「あんまり考えたことなかったです。なんか、自然に来る感じで」
「今、意識的に『食品以外を無視する』ように試みろ」
「やってみます」
ルナが、また目を閉じた。
意識を集中する少しの間、待った。
「......少し、静かになった気がします」とルナが言った。「東棟の人の焦りは、まだちょっと来ますけど、スープの匂いははっきりしてきました。あ、卵も入ってる。あと、中庭の南側に——誰かがさっきまでいて、その人が何か甘いものを持ってた気がします。もう行っちゃったけど、残り香みたいなのが」
「それで十分だ」
「十分ですか?」
「お前は今、感知の選択的制御を初めて意識的に行った」
「......そうなんですか」
「地下三階では、対象が限定されていたから制御を意識する必要がなかった。外では対象が多すぎる。絞る技術が必要だ」
「なるほど......」 ルナが、目を開けた。「なんか、疲れました」
「当然だ。初めてやった」
「地下三階って、すごく楽だったんですね、感知にとって」
「そうだ。管理された環境だ」
「でも、楽すぎて——外のことが全然わからなかったってことですよね」
「そうだな」
ルナが、中庭を見回した。石畳、草、冬の光、遠くに見える城壁。
「地下三階って、静かですよね」
「そうだな」
「外って、うるさい感じがします。精神波がいっぱいあって、匂いがいっぱいあって——でも、それがぜんぶ、生きてる感じがする」
俺は、それを聞いた。
「生きてる感じ」という表現は、ルナにしか出てこない言葉だ。感知の報告として正確ではないが——感知した内容の「質」として、正確だ。
「それを、書類に書ける言葉にしろ」と俺は言った。
「ええ? むずかしい」
「『生きてる感じ』では報告書にならない」
「うーん......。精神波の密度が、地下三階より高い?」
「それでいい。続けろ」
「精神波の密度が高く、複数の発生源が同時に存在するため、地下三階のような個別識別が困難」
「及第点だ」
「やった!」
* * *
午前の訓練を終えて、地下三階に戻った。
螺旋階段を下りると、いつもの空気が戻った。遺物の匂い、松明の光、静寂。
ルナが、一段目を降りたところで、少し立ち止まった。
「ししょー」
「なんだ?」
「地下三階、やっぱり静かですね」
「そうだな」
「なんか、ほっとします」
「そうか」
「でも——」 ルナが、また一段下りた。「外も、好きです。また行けますか」
「訓練として意味があれば、行く」
「やった!」
ルナが、机の端に鞄を置いた。在庫目録を棚から引き出した。午後の課題だ。
俺は、椅子に座った。
外の空気が、まだ少し、コートに残っている気がした。日の光と、石畳の冷たさと、スープの匂いの遠い残滓。
俺は、それを特に気にしないことにした。
* * *
夕刻、ルナが帰り支度をした。
「ししょー、今日の訓練、どうでしたか」
「感知の選択的制御が初めて成立した。記録に値する」
「記録に値する!」 ルナが、嬉しそうに繰り返した。「今日は何を学んだんですか、まとめると」
「『絞る技術』だ。感知できることと、感知すべきことは違う」
「なるほど。……ししょー、それって、訓練以外にも使えますよね」
「どういう意味だ」
「なんか、感知できることを全部受け取ってたら、疲れちゃうから——何を受け取るか選ぶ、みたいな」
俺は、少しの間、それを聞いた。
ルナは、訓練の話をしている。
おそらく、訓練の話だけをしている。
しかし、その言葉は——他のことにも当てはまる。
「そうだな」と俺は言った。
「ししょーも、使ってますか。絞る技術」
「......使っている」
「どんなときに?」
「知らなていいことを、知らないままにしておくときだ」
ルナが、それを聞いて、少し考えた。
「......ふーん」
おいおい。
私は、納得いってませんけど、何か? ―—的なやつか、反抗期か?
「なんだ」
「なんでもないです」 ルナが、コートの前を合わせた。「おやすみなさい、ししょー。今年もよろしくおねがいします」
「ああ、頼むな」
それ、絶対、「何かある」言い方だよね? そうだよね?
* * *
螺旋階段の足音が、遠くなった。
地下三階に、静寂が戻った。
遺物の棚が、いつも通りに呼吸していた。新しい在庫目録の、まだほとんど白いページが、机の上にある。
俺は、在庫目録を開いた。
《アルデン》の月、一日。新年。
・外出訓練:中庭、午前。
・成果:感知の選択的制御が初めて成立。
「建物越しの三十メートルで精神波の感情質を識別」
「感知対象の絞り込みを意識的に実行」
——記録に値する。
「知らなくていいことを、知らないままにしておく」と言った。
ルナは「ふーん」と言った。何を考えたかは、わからない。
・机の端の石:五個。
・査定まで:八十八日。
ページを閉じた。
新しい年が始まった。
外の空気の残滓は、もう消えていた。




