第20話 中間報告提出と、ルナが何も知らなかった話
《ノクス》の月の十五日。
朝、ルナが降りてきた。
「おはようございます、ししょー」
「来るのが早いな」
「なんか今日、早く目が覚めて」 ルナが、机の端の石を見た。「石、まだ四個ですね」
「そうだな」
「今日も増えないですかね」
「知らん。増えんだろ勝手には」
ルナが、コートを脱いで棚に掛けた。いつもより薄着だった。
「今日、暖かくないですか、外」
「《ノクス》の月の十五日前後は、夜が最も長くなる代わりに、昼間が一時的に暖かくなることがある。地熱の影響だ」
「へえ! ししょー、そういうのよく知ってますね」
「在庫目録に書いてある」
「あ、そっか。わたしも読めばよかった」
「読め」
「はーい」
* * *
午前の訓練は、在庫目録の口頭報告だった。
今日は棚の巡回後、俺に向かって「今日の地下三階の状態」を言葉で報告させる課題だ。巡回してきたルナが、机の前に立った。
「B列、全棚確認。封印状態、すべて安定。精神波の揺れ幅、通常範囲内。変質の兆候、なし。……C列、全棚確認。封印状態、安定。ただし、C列七番の上から五段目——去年の記録と比較して、精神波の質がわずかに重くなっている気がします。変質ではないと思うんですけど、一応」
俺は、メモを取った。
「重い、というのは」
「なんか、こう——詰まってる感じ、というか。去年と比べてるわけじゃないんですけど、他の箱よりちょっと密度が高い感じがして」
「確認する」
俺は立ち上がり、C列七番に向かった。上から五段目の箱に手を当てた。
確かに。
精神波の密度が、わずかに高い。変質ではない。ただし、封印が馴染みすぎて内部の波と同調しかけている——放置すると、半年後に問題になる可能性がある。
「正しい」と俺は言った。
「ほんとですか!」
「変質ではない。しかし、同調の兆候がある。今月中に封印の更新が必要だ」
「わたし、よくわかりましたね」
「そうだな」
「えへ」
俺は、メモに「C列七番・封印更新・要対処」と書いた。
この感知結果は、記録しておく価値がある。
* * *
昼前に、俺は立ち上がった。
「俺は少し出る」
「どこにですか」
「上役への書類提出だ。一刻ほどで戻る」
「はーい」 ルナが、在庫目録から顔を上げた。「何か持っていくものありますか」
「ない」
「じゃあ、ここ見てます」
「何も触るな」
「はーい」
俺は、机の端に置いてあった提出封筒を手に取った。六枚の報告書が入っている。封は昨日のうちにしてある。
螺旋階段を上がった。
* * *
上役の執務室は、地上の四階にある。
廊下は人が少なかった。《ノクス》の月の十五日は、年の折り返しの節目とされていて、午前中は各局が書類提出で動く日だ。廊下の端に、似たような封筒を抱えた術師たちが数人歩いていた。
俺は、そちらを気にしなかった。
四階の執務室の前に、受付の書記が座っていた。
「クインシー閣下、中間報告書のご提出ですね」
「そうだ。これを」
「お受けします」 書記が、封筒を受け取った。「ご署名を」
俺は、差し出された台帳に名前を書いた。
書記が、封筒の表書きを確認した。受理印を押した。
「確かに受領いたしました。審査結果は、《カルン》の月の初旬にご通知します」
「わかった」
それだけだった。
俺は、廊下に出た。
* * *
廊下を歩きながら、少し止まった。
窓の外に、午前の光があった。《ノクス》の月の十五日の昼だ。確かに、今日は少し暖かい。ルナの言った通りだった。
提出が、終わった。
六枚の報告書。三つの実績。「精神干渉ゼロ」は巧みに周縁化された。査定官が受け取るのは、「遺物感知を実務に応用しつつある弟子」という像だ。それは事実だ。嘘は一文字もない。
しかしこれは嘘だ。
この矛盾は、もう動かない。提出封筒は今、書記の手元にある。
俺は、廊下の窓の前に立った。
外に、光があった。
《ノクス》の月の、折り返しの日の光だ。ここから先は、少しずつ夜が短くなる。《ヴァルナ》の月が来て、《フォルナ》の月が来て、また一年が始まる。
ルナが来てから、初めての年の折り返しだ。
——去年は、ここに一人で立っていた。
俺は、窓から目を離した。螺旋階段の方へ歩いた。
* * *
地下三階に戻ると、ルナが机の端に座っていた。
在庫目録を読んでいるのかと思ったが、違った。
ルナは、何も持っていなかった。
机の端に座って、石の四個を眺めていた。何も言わず、何もせず、ただ座っていた。
こんな大人しい顔も持っているのかって、ちょっと新発見だった。
面白いな、こいつは、
「戻ったぞ」と俺は言った。
ルナが顔を上げた。
「おかえりなさい、ししょー」
「......何をしていたんだ?」
「なんか、ぼーっとしてました」
「在庫目録は?」
「読んでました。さっきまで。でも、なんか——なんでもないです。おかえりなさい」
ルナが、少し笑った。
俺は、コートを椅子に掛けた。机の前に座った。
「終わりましたか、ししょー」
「ああ」
「よかった」
「......何がよかったのか、お前にはわからないはずだが」
「わかんないですけど」 ルナが、石をひとつ指先でつついた。「ししょー、最近ずっと書類仕事してたじゃないですか。それが終わったんですよね、なんか」
「そうだな」
「じゃあ、よかったです」
俺は、何も言わなかった。
ルナが、石から指を離した。また、石を眺めた。
* * *
しばらく、互いに静かにしていた。
ルナは石を眺めていた。俺は机の前で目を閉じていた。
「ルナが初めて黙って座っていた」という状況が、地下三階に成立していた。訓練でもなく、報告でもなく、質問でもなく——ただ、いた。
五分ほど経って、ルナが口を開いた。
「ししょー」
「なんだ」
「C列七番の箱は、いつ封印更新しますか」
「今月中にする」
「私は何か手伝います?」
「感知の確認として同席させる。ただし触るな」
「はい」 ルナが、少し考えた。「封印更新って、どうやるんですか」
「今の封印を剥がして、新しい封印材を施す。精神波の状態を確認しながら密度を整える作業だ」
「むずかしいですか」
「俺には難しくない」
「そっか。……ししょー、わたし、いつかそれできるようになりますか」
「封印更新は、精神干渉の応用技術だ。お前には向いていない」
「そっか」 ルナが、それを静かに受け取った。「でも、感知はできますよね」
「今日の報告で、できると証明した」
「じゃあ、感知担当でいいです」
「お前にしか選択肢がない」
「でも、わたしは感知で及第点がもらえたじゃないですか」
「そうだな」
「じゃあ、十分です」
俺は、ルナを見た。
ルナが、また石を眺めていた。満足そうだった。何が十分なのか、何が足りていて何が足りていないのか——そういうことを、ルナはあまり考えない。今あるものを、今あるまま受け取る。
それが、この三ヶ月で俺が観察してきたルナだ。
* * *
「ししょー」
「なんだ」
「来年も、ここに来ていいですか」
「来年というのは」
「《ヴァルナ》の月になったら、また一年が始まりますよね。来年の一年も、わたし、ここで修行したいです」
「血契がある以上、来年もお前は俺の弟子だ」
「そうじゃなくて」 ルナが、少し首を傾けた。「血契があるからじゃなくて、わたしが来たいから来る、って話です」
俺は、その言葉を少しの間、受け取った。
「来るなと言えば来ないか」
「いえ、来ますよ」
「前と同じ答えだな」
「はい! 同じですよ?」 ルナが、当然のように言った。「変わる理由がないです」
俺は、何も言わなかった。
「......ししょー」
「なんだ」
「来年も、パン代の支給は続きますか?」
「もちろん、続けるさ」
「やった!」
* * *
夕刻になって、ルナが帰り支度をした。
「ししょー、明日の修行は?」
「C列七番の封印更新の準備をする。お前は在庫目録の読解を続けろ」
「はい」 ルナが、コートの前を合わせた。「《ノクス》の月って、あと何日ありますか」
「十五日だ」
「そっか。今日が折り返しですね」
「そうだな」
「年の後半も、よろしくおねがいします、ししょー」
「......ああ」
ルナが、螺旋階段の方へ向かった。一段目に足をかけて、振り返らなかった。今日は振り返らなかった。
「おやすみなさい」
「ああ」
足音が、遠くなった。
* * *
地下三階に、静寂が戻った。
遺物の棚が、いつも通りに呼吸していた。C列七番の箱が、わずかに重い密度を持ったまま、眠っていた。机の端の石が、四個、並んでいた。
俺は在庫目録を開いた。
《ノクス》の月、十五日。
・中間報告書:提出完了。受領印、確認。
審査結果は《カルン》の月の初旬。
・C列七番・封印更新:今月中に実施予定。
ルナが、封印更新への同席を希望した。
「感知担当でいいです」「十分です」——そういうやつだ。
「来年も来ていいですか」「変わる理由がないです」——そうだな。
・机の端の石:四個。
・査定まで:百三日。
ページを閉じた。
提出が終わった。山場の一つを、通過した。
嘘は一文字もなかった。
それでも嘘だった。
その矛盾のまま、俺はこれからも続ける。百三日、報告書をもう一枚、審査を一つ——そうやって積み重ねていく。
ルナは何も知らない。
知らないまま、「変わる理由がないです」と言う。
——まあ、いい。
ランプの炎が、小さく揺れた。
夜の神の月の、折り返しが、静かに終わった。




