第19話 報告書完成と、提出前夜と、ルナがずっと黙っていた話
《ノクス》の月の十日。
報告書が、完成した。
完成、という言葉は正確ではないかもしれない。「仕上がった」の方が近い。大工が木材を削り終えたときのような感覚——設計図通りに、部材が全部揃った。あとは組んで、表面を整えるだけだ。
俺は羽根ペンを置いた。
机の上に、六枚の紙が並んでいた。表紙一枚。本文三枚。付録一枚。添付資料一枚——ルナが書いた、あの「B列五番」の報告書だ。
全部で六枚。中間報告書として、規定の様式を満たしている。
* * *
昼過ぎ、ルナが降りてきた。
「ししょー、今日の修行は?」
「在庫目録の読解を続けろ。俺は見直しをする」
「はーい」
ルナが、在庫目録を棚から引き出した。机の端に座って、ページをめくり始めた。
俺は、報告書の第一節を読み直した。
≪「第一節:訓練対象の現状評価——弟子・ルナの精神波感知能力は、《フォルナ》月の業務開始時点からの比較において、実務応用の観点から以下の三件の実績を記録する」≫
問題ない。
≪「実績一:遺物の精神波状態の記述が、従来の感覚的表現から、棚番号・比較基準・観察事項の三要素を含む報告様式へと移行した。添付資料参照」≫
問題ない。
≪「実績二:《ヴェスタ》十五日、壁龕事案において早期感知を行い、対処の起点となる報告を提出した。詳細は第二節参照」≫
問題ない。
≪「実績三:在庫目録との照合作業を通じて、遺物の位置把握能力が向上し、棚番号の自律的な運用が可能になった」≫
問題ない。
三つの実績は、全て事実だ。嘘は一文字もない。
俺は、次のページをめくった。
* * *
「ししょー、これ、どういう意味ですか」
ルナが、在庫目録を持って立ち上がった。
「どこだ?」
ルナが、指で一点を示した。俺は目を向けた。
≪「《フォルナ》月・第二週。精神干渉訓練:継続困難。遺物感知への方針転換を検討。費用対効果の観点から、現状の維持継続については疑義あり。」≫
古い記録だ。俺が書いた。《フォルナ》月の十二日、あたりだろう。
「......どういう意味かわかるか?」
「なんとなくはわかります。でも、『費用対効果の観点から、現状の維持継続については疑義あり』っていうのが——これって、もしかしてわたしのことですよね」
「そうだ」
「費用対効果、って」
「当時の評価だ」
「今も同じですか」
俺は、在庫目録から目を上げた。
ルナが、真顔で俺を見ていた。怒っているわけではない。怖がっているわけでもない。ただ、聞いている。
「今は違う」と俺は言った。
「どう違うんですか」
「費用対効果の問題ではなくなった」
「どういうことですか」
「お前は精神干渉に向いていない。しかし遺物感知に向いている。そしてその向いていることが、実務として機能し始めた」
ルナが、少し考えた。
「それって、結果的にはよかった、ってことですか」
「そうだ」
「じゃあ、疑義は解消されましたか」
「......まあな」
「やった」 ルナが、在庫目録を持ったまま笑った。「疑義解消、やった」
「大げさだ」
「だって、最初はそう思われてたんですよね、わたし。でも今は違う。それって、わたしが変わったんですか。それとも、ししょーの見方が変わったんですか」
俺は、少し考えた。
「両方だ」
「そっか」 ルナが、在庫目録を胸に抱いた。「——ありがとうございます、ししょー」
「礼を言うことではない」
「でも、言いたいので言います」
俺は、報告書に目を戻した。
ルナが、在庫目録を持って机の端に戻った。
* * *
夕刻近く、ルナが帰る前に、また在庫目録から顔を上げた。
「ししょー、もう一個いいですか」
「なんだ」
「このへんの記録って——」 ルナが、別のページを開いた。「ここ、訓練の内容が書いてあるじゃないですか。『精神干渉:失敗』って、すごくたくさん書いてあって」
「そうだな」
「失敗って書いてあるのに、ししょーは、毎日続けてたんですよね」
「記録の通りだ」
「なんで続けたんですか⁈」
俺は、羽根ペンを置いた。
「やめる理由がなかった」
「やめる理由?」
「失敗が続いても、お前が能力ゼロだと確定したわけではなかった。可能性が消えていない以上、続けることが合理的だった」
「合理的」
「そうだ」
ルナが、少し黙った。在庫目録のページを閉じたり開いたりしながら、何かを考えていた。
「……ししょーって、合理的って言いますよね」
「そうだな」
「でも、わたし、あんまり信じてないです」
俺は、ルナを見た。
「どういう意味だ」
「合理的だからって言うけど、そうじゃない部分もありますよね、ししょーには」
「......根拠は?」
「根拠ってほどのことじゃないですけど」 ルナが、少し笑った。「合理的な人って、毎日パン代払いませんよね、ふつう」
俺は、何も言わなかった。
ルナが、コートの前を合わせた。
「おやすみなさい、ししょー」
「ああ」
---
螺旋階段の足音が、遠くなった。
地下三階に、静寂が戻った。
俺は机の上の報告書を見た。
六枚の紙が、並んでいた。
読み直す必要は、もうない。一節から四節まで、全部頭に入っている。全部事実だ。嘘は一文字もない。
俺は、その六枚を手に取った。
ひっくり返して、裏向きにした。
ランプの光の中で、白い紙の裏面が並んだ。
——嘘は、一文字もない。
ただし。
この報告書は、査定官に「ルナが想定以上の速度で成長している」という印象を与えるように設計されている。「精神干渉ゼロ」という事実は、巧みに周縁化されている。「遺物感知」という特異な能力が、あたかも精神熟達者の正規の評価軸に乗るかのように——そう見えるように、書いてある。
全部事実だ。
しかし、これは嘘だ。
俺は、その矛盾を十分に理解したまま、六枚の紙を揃えて机の端に置いた。明日、提出封筒に入れる。明後日には上役の手元に届く。十五日の締め切りに、間に合う。
* * *
しばらく、地下三階に一人でいた。
在庫目録を閉じた。棚の巡回もしなかった。ただ、机の前に座っていた。
ルナが言った言葉が、少し残っていた。
「合理的な人って、毎日パン代払いませんよね、ふつう」
正しい。
合理的な判断として、パン代を払い続ける理由はない。ルナが来るための動機付けとして機能しているが、血契があれば来ることは強制できる——パン代など、必要ない。
それでも払っている。
理由を言葉にしようとして、やめた。
言葉にする必要がない。
俺は立ち上がった。椅子の音が、地下三階に響いた。棚を一度だけ見た。遺物たちが、いつも通りに眠っていた。
螺旋階段を、上がった。
* * *
地上に出ると、廊下の窓から夜が見えた。
《ノクス》の月の夜だ。一年で最も夜が長い月だ。廊下に人影はなく、松明の光が床に長く伸びていた。
窓の外は、暗かった。
俺は、窓の前に少し立った。
空に、星があった。
《ヴェスタ》の月の終わりに、ルナが言っていた。「きれいだから見るんですよ、必要とか関係なくて」「締め切りが終わったら、見てみてください」
締め切りは、明日だ。
今夜は、まだ終わっていない。
しかし、報告書は完成している。
俺は、窓の外を見た。
星が、あった。
そういうものか、と俺は思った。きれいかどうかは、よくわからない。ただ、確かにそこにあった。ルナが毎晩帰り道で見ているものが、これだ。
俺は、三十秒ほど窓の外を見てから、地下三階に戻った。
螺旋階段を下りながら、「三十秒」という数字が少し気になった。
計っていたわけではない。ただ、それくらいの時間だったと思う。
* * *
机に戻った。
在庫目録を開いた。
《ノクス》の月、十日。
・報告書:完成。六枚。全て事実。しかし嘘だ。提出は明日。
地上に出た。窓から星を見た。三十秒ほど。
きれいかどうかはわからない。
ルナが言っていた通り、確かにあった。
・机の端の石:四個。
・査定まで:百八日。
ページを閉じた。
ランプの炎が、小さく揺れた。
地下三階は静かだった。
遺物の棚が、いつも通りに呼吸していた。
提出封筒は、棚の三段目にある。明日、報告書を入れる。明後日、届く。十五日の締め切りに、間に合う。
それだけだ。
俺は目を閉じた。
「合理的な人って、毎日パン代払いませんよね、ふつう」という言葉が、もう一度だけ通り過ぎた。
——まあ、いい。




