第18話 《ノクス》の月と、報告書と、夜が長くなった話
《ノクス》の月の一日。
夜の神の月が、始まった。
年の最後の月だ。一年で最も夜が長い月だ。地下三階には昼も夜も関係ないが、螺旋階段を上がれば、地上の廊下の窓から差し込む光が、《ヴェスタ》の月よりも確実に薄くなっていることがわかる。
俺は在庫目録を開いた。
新しいページの一行目に、日付を書いた。《ノクス》の月の一日。
机の端の石が、四個、並んでいた。
* * *
午前中、ルナは来なかった。
《ノクス》の月の初日は「月明け挨拶」の慣習があり、寮に住む訓練生は朝から上役への礼儀的な挨拶回りをするように定められている。ルナも例外ではない。
おそらく今ごろ、どこかの廊下で、誰かの執務室の前に並んでいる。
そういう日だ。そういう日もあるんだ。そんな日は願い下げだがね。
俺は、報告書の仕上げにかかった。
骨格は《ヴェスタ》の月の初週で完成している。フレーミングも確定している。残りは、数字を適切な位置に埋め込み、言葉の選択を最終調整する作業だ。「嘘のない、しかし印象を操作した」完成品にする——それだけだ。
できる。
できる、はずだ。そうだろ?
俺は、ページをめくった。
* * *
「言語化訓練の成果として、遺物の精神波状態の口頭報告精度が向上した」という一文を、俺はもう七回書き直していた。
問題は事実の正確さではない。ルナが何を言えるようになったかという事実は、これで合っている。
問題は「精度」という言葉だ。
精度、という言葉は数値的な裏付けを求められる。査定官に「具体的な数値は?」と問われたとき、俺には答えられない。ルナの言語化能力を数値化する基準がそもそも存在しないからだ。
ならば、別の言葉を使う。
俺は羽根ペンを置いた。少し考えた。
≪「遺物の精神波状態の記述が、従来の感覚的表現から、棚番号・比較基準・観察事項の三要素を含む報告様式へと移行した」≫
これなら数値を求められない。三要素が含まれているかどうかは、書類そのものが証明する。実際に書かれた報告書を添付すれば、それで完結する。
俺は、ルナが書いた紙を在庫目録から引き出した。
先週のものだ。「B列五番、上から三段目、左から二番目の箱。封印の状態:安定。精神波の質:穏やか、変質なし。前回確認時(三日前)と比較して変化なし。要観察事項:なし。」
「穏やか」は主観が入りすぎると指摘した。それでも、この紙は添付資料として使える。棚番号は正確だ。比較基準がある。様式として機能している。
俺は、この紙を報告書の末尾に添付資料として挟むことにした。
証拠を先に揃えてから文章を書く。文章は証拠の「解釈」として機能させる。これがフレーミングの基本だ。嘘は一文字もない。ただし、査定官の目線を誘導する。
俺は、また書き始めた。
* * *
昼を少し過ぎたころ、螺旋階段の足音が聞こえた。
一段ずつ、慎重に下りてくる足音だ。ルナではない。ルナの足音はもっと不規則で、途中で一段踏み外すことがある。
俺は羽根ペンを置いた。
姿を見る前に、精神波で確認した。訓練された術師の波。穏やか。敵意なし。
——来た。
「失礼します」
オルフェリア・ソル・ヴェインが、地下三階の入口に立っていた。今日も令嬢然とした白い制服。笑顔がある。目は笑っていない。
「《ノクス》の月明けの挨拶にまいりました、クインシー閣下」
「……月明け挨拶は上役にするものだが」
「監察局では、担当先へのご挨拶も慣例となっております」
俺は、その言葉を静かに受け取った。
担当先。つまり、ここは彼女の監察対象だ。それは知っている。ただし月明けの挨拶を「慣例」と言えるほど彼女がここへ来た回数は、まだそれほど多くない。
新しい慣例を、彼女が今作っている。
「どうぞ」と俺は言った。椅子を一つ動かした。
* * *
オルフェリアは、部屋を見回した。いつも通りの観察だ。棚の配置、遺物の封印状態、俺の机の上——視線が報告書の草稿に一瞬止まり、すぐに外れた。
「《ヴェスタ》の月、お疲れ様でした。壁龕の件は上に報告が上がっております」
「そうか」
「迅速な対処だったと、記録されています」
「業務の範囲内だ」
オルフェリアが、少し間を置いた。その間は、普通の人間には何でもない沈黙に見える。俺には、彼女が何かを計測している時間として感じられる。
「弟子のルナさんは、今日は?」
「月明け挨拶だ。午後に来る」
「そうですか」 また、少しの間。「言語化訓練は、続けていらっしゃるんですか」
「ああ、もちろん」
「進捗は」
「及第点に到達した」
オルフェリアの表情が、微かに変わった。完璧に制御されているが、俺には見える。「驚き」ではなく——「確認」だ。
「——そうですか」
「《ヴェスタ》三十日。棚番号・封印状態・比較基準を含む報告書を、初めて書いた」
「それは……」 オルフェリアが、何かを選ぶように少し考えた。「相当な成果だと思います」
「まあ、ね」
「ルナさんに伝えましたか」
「及第点だと言った」
「ご本人の反応は」
「やったと喜んでいたな。二回ほど」
オルフェリアが、今度こそ笑った。制御の外の笑いだった。ほんの一瞬、目に何かが宿った。
俺は、その笑いを記録しておいた。
「調査上の笑顔」ではない、という意味で。
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「中間報告の締め切りが近いですね」と、オルフェリアが言った。
「《ノクス》十五日だ」
「あと十四日」
「そうだな」
「準備は」
「進んでいる」
オルフェリアが、俺の答えを受け取った。それ以上は聞かなかった。聞かない、という判断が彼女の中でされたことは、精神波でわかる。
「では、お邪魔しました」と彼女は言った。立ち上がり、白い制服の裾を整えた。「弟子さんによろしくお伝えください」
「ルナに伝言を?」
「はい。『言語化、頑張ってください』と」
俺は、少しの間、それを聞いた。
「......必ず、伝えよう」
「よろしくお願いします」
笑顔がある。今度は、目も笑っていた。
かろうじて。
* * *
オルフェリアが帰った後、地下三階に静寂が戻った。
俺は、遺物の棚を一度だけ見た。壁龕の新しい封印は、今日も安定している。
「今のところ何もしない」という言葉が、まだここにある。
俺は机に戻り、報告書の草稿に向き直った。
オルフェリアの目が、草稿の上で止まった一瞬を思い出した。止まったのは確かだ。しかし、読めた量は少ない。俺が渡す前の草稿を読まれても困ることはない——正確に言えば、困ることはないように書いてある。
問題はない。
俺は羽根ペンを手に取った。
* * *
夕刻近く、ルナが降りてきた。
「ただいまです、ししょー」
「遅いな」
「挨拶が長くて! 上役の方が、ルナちゃんはどこの訓練生ですかって聞いてきて、地下三階の主任の弟子ですって言ったら、えって顔されて——」
「想像できる。続きはいい」
「えー」 ルナが、机の端の石を見た。「石、まだ四個ですね」
「当たり前だ。一日で増えるか」
「増えるかなーと思って」
「増えないだろ」
ルナが、俺の机を見た。報告書の草稿が広がっている。羽根ペンが三本、インク壺が二つ、参考にした古い査定書類が七枚。
「ししょー、今日ずっとこれやってたんですか」
「そうだ」
「……お昼は?」
「食ったぞ」
「ほんとですか? ランプの油、減ってないですよ」
「昼間は明るい」
「ああ、そっか」 ルナが、少し考えた。「食べてないでしょう」
「……パンを一つ食った」
「それだけですか」
「ああ。それだけだ」
ルナが、コートのポケットを探った。包み紙に包まれた何かが出てきた。
「月明け挨拶の帰りに買いました。アーモンドが入ったやつ。《ノクス》の月の季節限定らしくて」
「......置いておけ」
「食べてくださいよ、今」
「あとで食う」
「あとでって言ったらぜったい食べないじゃないですか、ししょーは」
俺は、草稿から目を上げた。
ルナが、包み紙を差し出したまま、立っていた。《ヴェスタ》の月よりコートが一枚厚い。少し鼻の先が赤い。長い廊下を歩いてきたのだろう。
俺は、包み紙を受け取った。
「......わかった。食うよ」
「絶対ですよ」
「絶対だ」
ルナが、満足そうに机の横にしゃがんだ。
* * *
しばらく、互いに何も言わなかった。
俺は草稿に向き直り、言葉の選択を続けた。ルナは机の横にしゃがんで、特に何もせず、ただそこにいた。
訓練でも報告でも質問でもない時間だった。
ルナが「しゅぎょーは?」と聞いた。
「今日は報告書を仕上げる。お前は在庫目録の続きを読め」
「はーい」 ルナが立ち上がり、棚から在庫目録を引き出した。机の端に座って、ページをめくり始めた。
静かになった。
遺物の棚が、いつも通りに呼吸していた。ルナが在庫目録をめくる音が、一定の間隔で聞こえた。松明の光が、揺れた。
俺は草稿を書いた。
≪「弟子・ルナの精神波感知能力は、《フォルナ》月の業務開始時点から比較して、実務への応用実績として以下の三件が記録される——」≫
三件、書けば及第だ。壁龕事案の早期感知、及第点報告書、在庫目録との照合実績。どれも事実だ。嘘は一文字もない。
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「ししょー」
ルナが、在庫目録から顔を上げた。
「なんだ?」
「これ、何ですか」 ルナが、在庫目録の一点を指した。「《ノクス》って書いてあるんですけど、去年の分ですよね」
「ああ。去年の《ノクス》の記録だ」
「去年の《ノクス》、ここに何かあったんですか」 ルナが、声を少し落とした。「なんか、書き方が違う気がして」
俺は、羽根ペンを置いた。
去年の《ノクス》の記録。
俺は、何が書いてあるか知っている。当然だ、俺が書いたのだから。
「......どう違うんだ?」
「いつもより短いです。一行しか書いてない」
「そうだな」
「なんて書いてあるんですか」
俺は、少し考えた。
「『《ノクス》の月、三十日。年が終わった。』」
ルナが、その言葉を聞いて、しばらく黙っていた。
「それだけですか」
「それだけだ」
「......さびしい」
「そうか?」
「一人だったんですよね、ししょー」
「そうだな」
「今年は、わたしがいますよ?」
俺は、草稿に目を落とした。
「そうだな」と俺は言った。
それ以上は言わなかった。
ルナも、それ以上は言わなかった。
在庫目録のページをめくる音が、また始まった。
* * *
夜が来た。
地下三階の窓はないが、ランプの光の質で夜がわかる。松明の炎が少し落ち着く。空気が一段冷たくなる。
「ししょー、今日はもう上がりますね」とルナが言った。
「ああ」
「報告書、終わりそうですか」
「《ノクス》十日には完成する」
「じゃあ余裕ですね」
「余裕ではない。十日に完成して、十一日から十四日で見直しをする」
「ちゃんとしてる」
「当たり前だ」
ルナが、コートの前を合わせた。螺旋階段の方へ向かいかけて、ふと振り返った。
「ししょー、オルフェリアさん、今日来ましたか」
「......なぜわかった」
「なんか、いつもと匂いが違うので。白い花の匂いがする人ですよね、あの人」
俺は、ルナを見た。
「......精神波で確認したわけではないな」
「はい。匂いです」
「そうか」
「何か言ってましたか」
「月明けの挨拶だと言っていた。——お前に伝言がある」
「わたしに?」
「『言語化、頑張ってください』だと」
ルナが、少し驚いた顔をした。それから、少し考えた。
「......オルフェリアさん、ちゃんと見てくれてるんですね」
「そうかもしれない」
「なんか、うれしいですね」 ルナが、小さく笑った。「ちゃんと頑張ります」
「そうしろ」
「ししょーも、ちゃんと食べてください。アーモンドのやつ」
「いただくよ」
「絶対ですよ」
「わかった」
* * *
螺旋階段の足音が、遠くなった。
地下三階に、静寂が戻った。
遺物の棚が、いつも通りに呼吸していた。包み紙がまだ机の端にある。俺は、それを手に取った。開いた。アーモンドが散らばった小さなパンが一つ。《ノクス》の季節限定。
食った。
悪くなかった。たまにはいいものだ。
俺は在庫目録を開いた。
《ノクス》の月、一日。
・オルフェリア来訪:月明け挨拶。ルナへの伝言あり。
・草稿の進捗:第一節完了。ルナが去年の《ノクス》の記録を見つけた。
「一人だったんですよね」——
そうだ。「今年はわたしがいますよ」——
そうだな。
・机の端の石:四個。
・査定まで:百十七日。
ページをめくった。
夜の神の月の、一日が、終わった。
地上では今夜も、夜が長くなっていた。




