第17話 守護の月の終わりと、百十八日と、石が四個になった話
月末だ。報告書だ。胃痛だ。
そして今日は、石が四個になった。
そんな、静かでしょっぱい《ヴェスタ》最終日の話。
《ヴェスタ》の月の三十日。
《ヴェスタ》の月が終わる。
守護の女神の月だ。冬支度の月だ。この月が終われば《ノクス》——夜の神の月、年の最後の月になる。そして《ノクス》の十五日が、中間報告の締め切りだ。
残り十五日で、報告書を仕上げなければならない。
骨格はできている。フレーミングも確定している。あとは数字を入れて、言葉を整えて、「嘘のない、しかし印象を操作した」完成品にする作業だ。
できる。
問題はそこではない。
* * *
朝、ルナが降りてきた。
今日は手に何も持っていなかった。《ヴェスタ》の月の初日以来、ルナが手ぶらで来るのは二度目だ。
「おはようございます、ししょー」
「来るのが早いな」
「今日で《ヴェスタ》の月が終わるじゃないですか」
「そうだな」
「なんか、あっという間でしたね」
「そうだな」
ルナが、地下三階を見回した。いつもと同じ倉庫だ。遺物の棚。松明の光。埃の匂い。壁龕は、新しい封印が施されて、静かになっている。
「ししょー、ここ、わたしが来た頃と変わりましたか」
「変わっていない」
「そっか。......わたしは変わりましたか」
俺は、ルナを見た。
「どういう意味だ」
「なんか、最初の頃より、いろいろわかるようになった気がして。言語化もできるようになったし、棚番号も覚えたし、在庫目録も少し読めるようになって」
「そうだな」
「えらいですか?」
「まあ」
「やった!」
* * *
午前の訓練は、言語化の応用課題だった。
今日は俺が棚の一点を指定して、ルナに「その箱の精神波の状態を、査定官に提出する書類として書け」という課題を出した。
ルナが、真剣な顔でしゃがんだ。棚の箱を感知して、しばらく考えて、俺から借りた紙に書き始めた。
五分後、ルナが紙を持ってきた。
俺は読んだ。
「B列五番、上から三段目、左から二番目の箱。封印の状態:安定。精神波の質:穏やか、変質なし。前回確認時(三日前)と比較して変化なし。要観察事項:なし。」
俺は、その紙をしばらく見た。
ほう、まともに書けてるじゃないか。関心関心。
「どうでしたか」と、ルナが聞いた。
そんな期待を込めて真っすぐ見るな。
照れるだろうが。
だが、ここは褒めすぎないよう、成長を促しておこう。
うん。照れ隠しじゃないからな。絶対。
「及第点だ」
「ほんとですか!」
「棚番号が正確で、状態の表現が適切で、比較基準がある。報告書として機能する」
「やった!!」
「ただし」
「ただし?」
「『穏やか』という言葉は、主観が入りすぎる。『精神波の揺れ幅が通常範囲内』と書いた方が正確だ」
「そっか......。でも、穏やかってそういう意味で書きました」
「意味は同じだ。ただし、書類としての精度が違う」
「むずかしいですね」
「むずかしい」
「でも、及第点だったんですよね」
「そうだ」
ルナが、満足そうに笑った。
俺は、その紙を在庫目録に挟んだ。
* * *
昼過ぎ、ルナが棚の巡回から戻って、机の横にしゃがんだ。
「ししょー、一個いいですか」
「なんだ」
「来月、《ノクス》の月って、どんな月ですか」
「夜の神の月だ。一年で最も夜が長い月」
「ふーん。......地下三階には関係ないですよね、夜が長くても」
「そうだな」
「ししょーって、地上に出ますか。夜に」
「あまり出ない」
「そっか。......夜の地上って、きれいですよね。星が多くて」
「見るのか」
「たまに。帰り道で」 ルナが、少し考えた。「ししょーは、星とか見ますか」
星空を見上げて、ひとり感傷に耽る自分を想像してみた。
想像してみた。
想像......。
あー、想像できなかった。悪いな。
「見ない」
「なんでですか」
「必要がない」
「きれいだから見るんですよ。必要とか関係なくて」
俺は書類に目を落としたまま、少しの間、何も言わなかった。
「《ノクス》の月は、中間報告の締め切りがある」と俺は言った。
「ああ、そうか。忙しいですね」
「忙しい」
「でも、締め切りが終わったら、星、見てみてください」
「......考える」
「『考える』はしないってことですよね、ししょーの場合」
「そうとも限らない」
「ほんとですか?」
「......うるさい」
ルナが、くすっと笑った。
* * *
夕刻近く。
ルナが帰り支度をしながら、机の端の石を見た。
「ししょー、石、三個のままですね」
「そうだな」
「増やしていいですか」
「好きにしろ」
ルナが、コートのポケットをごそごそと探った。小さな石を取り出した。少し緑がかった、平たい石だ。
「これ、昨日、城下町の石畳の隙間に挟まってたやつです。きれいな色だったので持ってきました」
「蛇紋岩だな」
「じゃ、へびもんがん?」
「緑の模様が蛇の皮に似ているから、そう呼ばれる」
「へえ! へびっぽいですね、言われてみたら」
ルナが、机の端に石を置いた。茶色が二個、白っぽいのが一個、そして緑がかった平たい石が一個。
四個になった。
「ししょー、石が増えると、何かいいことありますか」
「ない」
「そっか。でも、なんかいい感じがします」
「そうか」
「はい」
ルナが、コートの前を合わせた。《ヴェスタ》の月になってから、地下三階の空気はひと刻ごとに冷たくなっている。コートが一枚厚くなっている。
「ししょー、来月も修行ありますか」
「もちろん、あるぞ」
「パン代も?」
「続ける」
「やった!」
* * *
「ししょー」
螺旋階段の一段目に足をかけたところで、ルナが振り返った。
「なんだ」
「わたし、ここ好きですよ」
俺は、ルナを見た。
「地下三階が、ですか」
「はい。なんか、落ち着くんですよね。最初は暗くて怖い感じがしましたけど、今は慣れました。遺物の匂いも、最初は変な感じがしたんですけど、今はなんか、わかる感じになってきて」
「そうか」
「ししょーが、五年間ここにいた理由、少しわかる気がします」
「......どういう意味だ」
「ここって、静かじゃないですか。いろんなものが詰まってるけど、なんか、静かで。外の廊下とか、地上とか、ざわざわしてるのに、ここは違う感じがします」
俺は、何も言わなかった。
「ししょーって、静かなところが好きなんですよね」
「......まあ」
「だから、ここにいるんですよね」
「そういうことだ」
「そっか」
ルナが、少し笑った。
「でも、わたしが来てから、ししょーの胃はずっと痛そうですよね」
「そうだな」
「ごめんなさい」
「謝らなくていい」
「でも——」
「来るなと言えば来ないか」
「......来ます」
「そうだろう。ならいい」
ルナが、もう一度笑った。今度は、くすっとではなく、少し大きく。
「おやすみなさい、ししょー」
「ああ」
* * *
螺旋階段の足音が、遠くなった。
地下三階に、静寂が戻った。
遺物の棚が、いつも通りに呼吸していた。壁龕の新しい封印が、安定している。記憶の残滓の木箱は、今日も眠そうだった。
机の端に、石が四個、並んでいた。
俺は在庫目録を開いた。
《ヴェスタ》の月、総括。
・言語化訓練:及第点に到達。
ルナが初めて「報告書として機能する」文章を書いた。
・棚番号の把握:完了。
・在庫目録の読解:進行中。
・壁龕事案への対応:記録済み、実績として計上可能。
・中間報告書:骨格完成、仕上げ作業前半で完了予定。
・オルフェリア:確信に至った。
「今のところ何もしない」を信じるかどうかは、まだわからない。
・査定まで:百十八日。
・机の端の石:四個。
ページをめくった。《ヴェスタ》の月の記録が、終わった。
新しいページに、明日の日付を書いた。
《ノクス》の月の一日。
夜の神の月が、始まろうとしていた。
俺は冷めた茶を一口飲んだ。
「来るなと言えば来ないか」と聞いたとき、ルナは「来ます」と言った。迷いなく。一秒も考えずに。
俺は、その答えを予測していた。
予測していて、聞いた。
理由は——まあ、いい。
第三章 了
第三章、完了です。
ルナは報告書を書けるようになり、
在庫目録を読み、
そしてギルは今日も胃痛でした。
次章も地下三階でお待ちしています。




