第16話 ルナが気づきかけた話と、ギルが何も言わなかった話
在庫目録を読まれた。
しかも“査定”のページを。
そして今日は、俺が初めてはっきり嘘をついた日でもある。
そんな、胃痛がまた更新された日の話。
《ヴェスタ》の月の二十五日。
在庫目録を読み返していた日だ。
ルナが、最近、在庫目録を読む習慣をつけていた。「字が小さくて読めない」と言いながら、それでも毎日、少しずつページをめくっている。最初は棚番号の確認のために使っていたが、今では過去の記録にも興味を持ち始めた。
今日は、ルナが午後の訓練の合間に、在庫目録の古いページを開いていた。
「ししょー」
「なんだ」
「この記録、ししょーが書いたんですか」
「そうだ」
「全部?」
「この部署に来てからのものは全部」
「すごいですね。何年分あるんですか」
「五年分だ」
「五年分……」 ルナが、ページをめくった。「これ、最初のページっていつですか」
「《カルン》の月だ。五年前の」
「カルンの月って、夏ですよね。ししょー、夏にここに来たんですか」
「そうだ」
「わたしが来たのは《フォルナ》の月だから——ししょー、わたしが来るまで、五年間一人だったんですね」
「そうなる」
ルナが、在庫目録を少し眺めた。
「......一人で、こんな分厚い目録を書いてたんですね」
「仕事だからな」
「そっか」
* * *
しばらくして、ルナがまた声をかけた。
「ししょー、この記録、見ていいですか。《フォルナ》の月のやつ」
「好きにしろ」
ルナが、今年の《フォルナ》の月の記録を開いた。
俺が書いた記録だ。ルナと出会った日から始まる。師弟契約を結んだ日。パン屋に行った日。訓練を始めた日。
ルナが、静かにページをめくっていた。
「ししょー」
「なんだ?」
「これ、わたしのことも書いてありますね」
「弟子の記録は業務書類だ」
「えっと……『弟子・ルナ。精神干渉ゼロ。遺物感知、規格外。活用方針、転換』って書いてあります」
「そうだ」
「活用方針、転換って、どういう意味ですか」
「精神干渉の訓練から、遺物感知の活用に方針を変えた、ということだ」
「ああ、そういう意味か。……あと、パン代って書いてあります」
「経費の記録だ」
「えへへ」
ルナが、ページをめくり続けた。
俺は書類仕事を続けながら、横目でルナを見ていた。
どこまで読むか。何を見つけるか。
* * *
しばらくして、ルナの手が止まった。
「ししょー」
「なんだ」
「ここに、『査定』って書いてあります」
「そうだ」
「査定のこと、すごくたくさん書いてありますね。ほぼ毎日」
「管理上、記録している」
「えっと……『査定まで百八十二日』、百七十日、百五十日……どんどん減ってますね」
「そうだな」
「これ、ししょーにとって、すごく大事なことなんですか」
俺は、手を止めた。
「業務上の重要事項だ」
「そっか。……ししょー、わたしが査定に通らなかったら、どうなるんですか」
同じ問いだ。《ヴェスタ》の一日に、ルナが聞いた問いと同じだ。
「心配するな」と俺は言った。「うまくいくように、俺がやる」
「でも、もし——」
「心配するな」
「……でも」
ルナが、在庫目録から顔を上げた。
「なんか、ししょー、いつもより強く言いますね。『心配するな』って」
カンはするどいんだよな、こいつは。
ごまかし切れるか? いや、心配させるわけには......。
そう。何も心配はいらない。そうだろ?
「......そうか」
「なんか、すごく大事なことなのかな、って思って」
「査定は大事だ」
「そうじゃなくて」
ルナが、少し考えた。
「なんか……わたしが通らなかったら、ししょーにも何か関係することがあるんですか」
俺は、ルナを見た。
ルナが、俺を見ていた。「食べたい」でも「やった!」でも「おなかすいた」でもない目だった。何かを考えようとしている目だった。
「師弟契約は、弟子の育成に責任を持つことを意味する」と俺は言った。「査定の結果は、俺の評価にも影響する。だから大事だ」
「そうですか......」
ルナが、少し考えた。
「それだけですか」
「それだけだ」
ルナが、俺を見続けた。
三秒。五秒。
「......そっか」
それ以上は聞かなかった。
* * *
夕刻近く、ルナが在庫目録を閉じた。
「ししょー、一個だけ聞いていいですか」
「なんだ」
「血契って、師弟が両方いなくなったら、どうなるんですか」
俺は、書類から顔を上げた。
顔に出ないよう、最大限気を配る。
「両方いなくなる、というのはどういう意味だ」
「なんか......片方がいなくなったら、もう片方も一緒にいなくなる、みたいなことがありますか」
俺は、少しの間、ルナを見た。
この問いが、どこから来たのか。在庫目録を読んで、何を感じたのか。ルナがどこまで考えているのか——わからない。
「そういう条項は、古い時代の血契には存在したらしい」と俺は言った。「ただし、現在の標準的な血契にそういった条項があるかどうかは、契約の内容による」
「ししょーとわたしの契約は?」
「......お前が心配するようなことは、何もない」
「そうですか」
「そうだ」
ルナが、俺を見た。
また、三秒。五秒。
「......そっか」
それ以上は聞かなかった。
* * *
ルナが帰った後、俺は長い間、在庫目録を見ていた。
「片方がいなくなったら、もう片方も一緒にいなくなる」——ルナは、どこまで感づいているのか。在庫目録の「査定」への記録の多さを見て、何を感じたのか。
わからない。
ただ、ルナが「それだけですか」と聞いたとき——俺は「それだけだ」と答えた。
嘘だ。
これまでで、一番はっきりした嘘だ。言わないことにした、という曖昧さではなく、明確に、嘘をついた。
それでも——言わない、ということには変わりがない。
言わないことにした。
理由は——まあ、いい。
《ヴェスタ》二十五日。
・ルナが在庫目録を読んだ。査定の記録の多さに気づいた。
「それだけですか」と聞かれた。「それだけだ」と答えた。
血契の条項について、遠回しに聞かれた。
「心配するようなことは何もない」と答えた。どちらも、嘘だ。
今日、初めて、はっきりと嘘をついた。
査定まで九十三日。
・胃痛:今月最高値。
ペンを置いた。
机の端の石を見た。三個、並んでいた。
茶を一口飲んだ。冷めていた。
地下三階が静かだった。遺物の棚が、静かに呼吸していた。
俺は、その静寂の中で、少しの間だけ、目を閉じた。
(付記)ルナは、「そっか」と言って、それ以上聞かなかった。なぜ聞かなかったのかは、わからない。信じたのか。気を遣ったのか。あるいは——わかっていて、聞かなかったのか。わからない。わからないまま、今日は終わる。
在庫目録を読まれ、査定を見られ、
血契の核心に触れられ、
そしてギルは初めてはっきり嘘をつきました。
でも、ルナは「そっか」とだけ言ってくれました。
次回も地下三階でお待ちしています。




