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世界最強の精神熟達者、解除不能の師弟契約で無能少女を育てることになった俺の終わらない修行の日々  作者: ちとせ鶫


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第2話 師匠の義務と、パンと、胃の痛みについて

(低く、重厚な笑いを含んだ吐息。紙が擦れる音)


……「師弟契約」。

王立訓練所の立派な教本様には、さぞや高潔な言葉が並んでいるんだろうな。

力を継ぎ、技を教え、互いの命を預ける……。

ああ、全くだ。本来なら、吐き気がするほど厳粛な儀式であるはずだった。


だがな、現実はいつだって物語より滑稽なもんだ。

血の盟約を結ぶべき神聖な時間は、どこからか漂ってきたシナモンの匂いにぶち壊される。

世界を左右するはずの重要条項も、甘いメロンパンの誘惑の前には、紙屑同然の扱いだ。


これは、地下三階で遺物を守る男・ギルと、その弟子ルナ……二人が踏み出した、最初の一日の記録だ。

理屈や常識が通用しない、デタラメな始まり。


そしてな……。

何より滑稽なのは、このギルという男だ。

自分の「静かな余生」という計画が、もうとっくに足元から崩れ去っていることに……、

あいつはまだ、気づかない振りを続けていやがる。


(煙草を深く吸い込み、楽しげに目を細める気配)


……やれやれ、退屈だけはしなさそうだ。

さて、メロンパンの匂いにまみれた修行、見守らせてもらおうか。

《フォルナ》の月の五日。


 地下三階というのは、出口が遠い。

 これは物理的な話だ。

 地上まで戻るには、石造りの螺旋階段を三フロア分登り、守衛の詰め所の前を通り、来客用の廊下を抜け、ようやく王宮の裏口に出る。

 所要時間にして約十分。

 普段の俺にとって、これは「世界との距離」であり、「平和の壁」であり、かけがえのない緩衝地帯だ。

 今日に限っては、その十分が恐ろしく短かった。


「ししょー」

「……なんだ」

「ししょーって、なんで『師匠』って書くんですか?」


 俺はこめかみを二本指で押さえた。

 隣を歩くルナが、石造りの廊下の天井を見上げながら、そんなことを言っている。 

 銀色の髪が、松明の光の中でゆらゆらと揺れていた。

 さっき地下倉庫を出てから、まだ一分も経っていない。


 俺が「話がある」と切り出してから、すでに三回脱線した。

 最初は廊下の染みが「地図みたいな形」だという話。

 次は松明の燃え方が「左と右で違う」という観察。

 そして今度は字の話だ。


「どうでもいい」と俺は言った。

「そうですか。……ししょー、あのー」

「なんだ」

「さっき『話がある』って言ってましたよね」

「言った」

「それって、怒ってます?」

「怒っていない」

「そうですか! よかったです」


 ルナが、ほっとした顔で微笑んだ。

 その顔が、またしても「安堵する聖女」のビジュアルだった。

 廊下を行き交う侍従たちが、ちらりとこちらを見る。

 俺は無言で歩き続けた。


 話がある、というのは本当だ。

 血契には、幾つかの条項が存在する。


 1.互いの感情と感覚が繋がること。

 2.空腹が筒抜けになること。

 3.死ぬまで解除できないこと。そして——

 まあ、それは後でいい。

 今は、基本的な条項から説明すれば十分だ。


「ルナ」

「はい!」

「血契について、説明する。よく聞け」

「はい!」


 ルナが、両手を後ろで組んで、背筋を伸ばした。

 聞く体勢、ということらしい。俺は一つ息を吸った。


「まず、この契約は——」

「あ」

「……なんだ」

「シナモンの匂いがします」


 俺は立ち止まった。

 ルナはもう、廊下の角を覗き込んでいた。

 鼻をひくひくさせながら、角の向こうへと視線を伸ばしている。

 その横顔は真剣そのもので、まるで索敵中の哨兵のようだった。

 内容がシナモンでなければ、そう見えたかもしれない。


「ルナ」

「甘い匂いです。焼いてる匂いがします。ここから……えっと、右に曲がって、さらに右ですかね」

「王宮の廊下にシナモン菓子は売っていない」

「でも匂いがして」

「厨房が近い。匂いが漏れているだけだ」

「厨房! 厨房ってどこですか!」

「行かなくていい」

「でも——」

「行かなくていい」


 ルナが、しょんぼりと肩を落とした。

 その所作が、またしても絵になっていた。

 「失意の聖女」。


 廊下を行く侍従が一人、立ち止まりかけた。

 俺は「認識の膜」をごく薄く展開して、二人への視線を自然に逸らした。

 これが、今日で何度目だろう。

 地下三階ではほとんど使わずに済んでいた術式が、

 ルナと並んで歩くだけで、じわじわと消費されていく。

 この子の存在は、周囲の注目を集める。

 黙っていれば清廉な美少女だ。

 動けば食べ物を探す生き物になるが、それでも動き方が様になっている。

 俺が何もしなければ、歩くたびに誰かが振り返る。


 静かな定年計画に、こんな変数は存在しなかった。

「……歩くぞ」と俺は言った。「話の続きをする」

「はい! あ、でも右に曲がってもいいですか? 少しだけ」

「ダメだ。まっすぐ行く」

「そうですか……」


 また肩が落ちた。

 俺は歩き出した。ルナがついてくる。

 その足音が、石畳の上で小さく響いた。


「血契は、師弟の縁を結ぶ絶対的な契約だ」と俺は話し始めた。「一度結んだら、解除できない。死ぬまで、だ」

「死ぬまで」

「そうだ」

「ししょーが先に死んだら、どうなりますか?」

 俺は一瞬、言葉を止めた。

「......その場合、弟子の縁も切れる」

「じゃあ、わたしが先に死んだら?」

「同じだ」

「そうですか」 ルナが、少し考えるような顔をした。「なんか、すごい契約ですね」

「そうだ」

「ということは、ししょーが死ぬまで、わたしはししょーの弟子ってことですか」

「そういうことになる」

「じゃあ、ずっとパン買ってもらえますか?」

 俺は額に手を当てた。


 王宮の裏口を出ると、秋の空気が広がっていた。


 《フォルナ》の月は、収穫の季節だ。

 城下町の方角から、何かを焼く匂いが漂ってくる。

 木の実か、芋か、あるいはパンか。

 俺には判別できないが、隣のルナは一歩踏み出した瞬間に「あっちです」と迷いなく言った。


「何があっちなんだ」

「パン屋です。たぶん」

「たぶん、か」

「いえ、確実に。バターの匂いがします。あと砂糖。焼けてる感じの、あの匂いです」


 俺は空を見た。秋の薄い青だった。

 精神熟達者として三十年以上生きてきたが、「弟子の才能がパン屋の特定に全振りされている」という状況に備えた訓練は、受けていなかった。


「……案内しろ」と俺は言った。

「えっ、いいんですか!」

「どうせ向かう方向だ」


 これは本当のことだった。

 城下町のパン屋は、王宮の裏口から南へ歩いて十分ほどの路地にある。

 俺が知っている。

 五年間この部署にいれば、近隣の店の一軒や二軒は把握する。

 別に好んで通っているわけではない。

 ただ、知っているだけだ。


 ルナが、さっさと歩き出した。

 迷いなく。

 一度も立ち止まらずに。

 角を曲がるたびに「こっちです」と言いながら、路地を進んでいく。


 俺はその後ろをついて歩きながら、観察していた。

 この子の「食感知」というのは、精神波を介した感知能力だ。

 半径数キロ圏内の食品の存在と状態を、精神波の微細な揺らぎとして認識する。

 料理人の隠し味すら読み取るという。

 精神熟達者の能力としては完全に規格外——

 というより、そもそも「精神熟達者の能力」として分類していいのかどうか、

 俺には判断がつかない。


 だが、機能しているのは確かだ。

 ルナが「こっちです」と言うたびに、

 俺の「認識の膜」が周囲の精神波を解析する。

 食材の精神波は、確かにそちらの方角から強くなっている。

 ……使えるかもしれない、という考えが、昨日からずっと頭の隅にある。

 まだ結論は出ていない。


「ここです!」


 ルナが立ち止まった。

 石畳の路地の一角に、小さなパン屋があった。

 木製の看板に、小麦の穂の絵が描かれている。

 扉の隙間から、焼きたてのバターと砂糖の匂いが漏れていた。

 俺でも、ここまで来れば匂いはわかる。


「よし、入るか」

「はい!!」


 ルナが扉を押し開けた瞬間、匂いが一気に広がった。

 俺の鼻にも届く、甘く温かい匂いだ。

 師弟リンクを通じて——ルナ側からの何かが、かすかに流れてきた。


 多幸感、とでも言えばいいのか。

 甘い匂いを嗅いだことによる、単純で純粋な喜びのようなものが、

 俺の意識の端を掠めた。

 ほんの一瞬だ。だが確かに、あった。


 俺は、ぶっきらぼうに一言呟いた。

「……うるさい」

「え? 何もしゃべってませんよ?」

 ルナが振り返って、首を傾げた。

「……なんでもない。好きなものを選べ」

「ほんとですか!!」


 ルナがメロンパンを選ぶのに、三秒かかった。

 迷ったわけではない。

 扉を開けた瞬間から、もう決まっていたのだと思う。

 ショーケースの前に立ち、三秒かけて全体を確認し、

 「これです」とメロンパンを指さした。

 それだけだと思ったら、こいつ何個買うかを悩んやがった。


 店主が袋に包んで渡すと、ルナは両手で受け取った。

 その瞬間の顔が——俺は、うまく言葉にできない。

 「喜んでいる」という言葉では足りない。

 満足、でもない。

 何か、もっと根源的なものが顔に出ていた。

 銀髪の少女が、焼きたてのメロンパンを両手で持って、目を細めている。

 周囲の客が、何事かと振り返った。

 老いた職人の男が、照れたように目を逸らした。

 店主が、少し誇らしげな顔をした。


 ルナは何も気づいていなかった。

 目の前のメロンパンを見ていた。それしか見ていない。


 俺は視線を窓の外に向けた。

 路地には、秋の光が落ちていた。


 師弟リンクを通じて、また何かが流れてきた。

 今度はもっと、静かで、深いものだった。多幸感というより——満足、だろうか。 

 満たされている、という感覚だ。

 これがルナの「素」なのだと思う。

 食べ物が手の中にある。

 それだけで、完結している。

 俺の腹が、ごく小さく鳴った。

 ……昼を食べていなかったことを、思い出した。


「ししょーは何か買わないんですか?」

 ルナが聞いた。食べきれるのか不安な数のメロンパンが詰まった紙袋を、

 まだ開けずに、大事そうに抱えながら。

「いらない」

「そうですか。……でも、さっきお腹鳴ってましたよ」

「鳴っていない」

「聞こえましたよ」

「……歩くぞ」


 俺は店を出た。ルナがついてきた。

 路地の日当たりのいい場所で、ルナがメロンパンの袋を開けた。

 秋の空気の中に、バターと砂糖の匂いが広がった。


 ルナが一口、頬張った。

 また、あの顔になった。

 幸せそうな、まるで子リスの様相だ。

 頬がぷっくり膨らんで幸せそうにメロンパンを噛みしめている。


 師弟リンクを通じて、あの多幸感がまた流れてきた。

 今度は少し大きかった。俺は眉間に皺を寄せて、空を見た。


「……うまいか」

「うまいです」

「そうか。うまいか。よかったな」


 しばらく、二人で歩いた。ルナがパンを食べながら、俺が黙って歩いた。路地を抜けると、王宮の外壁が見えてくる。


「ルナ」

「はい?」

「血契の話の続きをする」

「はい!」ルナが、メロンパンを持ったまま、背筋を伸ばした。

「聞いてます」を体現する。

「互いの感覚が繋がることは、もう体感しているな」

「はい。ししょーのお腹が空いてるとわかりました」

「……そうだ。その逆も同じだ。お前の感覚が、俺に流れてくる」

「じゃあ今、メロンパンがおいしいのもわかりますか?」

「……わかる」

「わあ」 ルナが、感心したように言った。「すごいですね、師弟契約って」

「すごくない。面倒だ」

「そうですか? わたしはいいと思いますけど」


 俺は少し、言葉を止めた。

「この契約には、まだ条項がある」と俺は言った。「お前に伝えておくべきことが、ある」

「はい」

「査定がある。俺の部署では、定期的に弟子の育成状況を報告する義務がある。お前が——」


 ルナのお腹が、鳴った。

 低く、朗らかに。

 ルナが手元のメロンパンを見た。袋の中は、もう空だった。

「……おなかすいた」

 俺は、空を見上げた。

 神様。俺の弟子は底なし胃袋ちゃんです。


 《フォルナ》の月の、秋の空だった。

 薄い雲が、ゆっくりと流れていた。


「……続きは地下に戻ってから話す」

「はい! あ、ししょー、もう一個買いに戻っていいですか?」

「ダメだ」

「そうですか……」


 地下三階への帰り道、俺はひとつだけ、自分に確認した。

 言うべきことは、ある。条項の中に、まだ伝えていないものがある。

 それを言えば、ルナは——どういう顔をするだろう。

 驚くか。怖がるか。あるいはまた、三秒後に別のことを考えるか。


 俺は、螺旋階段を降りながら、その答えを出した。

 言わない、ということにした。

 理由は——まあ、いい。

 ただ、言わない。それだけだ。


 地下三階の扉を開けると、遺物の棚が静かに俺たちを迎えた。埃の匂いと、かすかな精神波の重さ。俺の聖域だ。


 ルナが「地下って、独特の匂いがしますね」と言った。

「慣れるさ、すぐに」と俺は答えた。

「ししょーはもう慣れてるんですか?」

「五年いるからな」

「五年! ということは、わたしも五年いたら慣れますか?」

「……そういう計算になる」


 ルナが、倉庫の中を見回した。

 遺物の棚。

 古い木箱。

 封印の紋様。

 染みだらけのコンクリートの天井。

 それらを一通り眺めてから、ルナは「なんか、おうちみたいですね」と言った。

 俺は在庫目録を手に取った。

 その日の記録欄に、こう記した。


《フォルナ》五日。弟子との初日。パン屋に行った。血契の条項、一部説明。残りは——保留とする。胃痛:軽度。理由:多幸感の流入、および空腹。パン代:立て替え済み。


 ペンを置く。

 ルナが棚の前にしゃがんで、遺物の木箱のラベルを読んでいた。

 読めているのかどうかわからないが、真剣な顔をしていた。


 俺は、冷めかけた茶を一口飲んだ。

 旨くなかった。

 だが、悪くもなかった。

 いつも通り。

(暗がりの中、古い椅子の軋む音。ウイスキーの氷が鳴る)


……「血契」に「精神熟達者」。

言葉だけ並べりゃ、死臭の漂う物々しい設定ばかりだ。

査定だの感覚共有だの、本来なら背筋を正して聞くべき「世界の理」がそこにはある。

だがな……。


この地下三階じゃ、そんなシリアスな理屈も、ふわりと漂うシナモンの香りに、あっさりとその座を奪われちまう。

ルナという娘の存在が、張り詰めた空気を次々と脱線させていくのさ。

一見すればただの喜劇だが……。

その脱線の軌跡にこそ、この世界の「核」が巧妙に隠されている。


「重い真実ほど、軽い日常の中に沈めておかなきゃあならねえ……。

 一度に飲み込むには、この世界は少々、毒が強すぎるからな」


ギルの奴も、それを分かっているのか……それとも。

あいつは合理性の塊のような男だが、肝心な条項を最後まで口にしなかった。

プロとしての判断を、一片の「情」で先送りにしやがったんだ。


……それを「弱さ」だと笑う奴もいるだろう。

だが、その弱さが、非情な地下三階にわずかな体温を灯しているのも事実だ。

その「先送りした決断」が、後にどんな火種になるかも知らずにな……。


(グラスを空け、低く、満足げに喉を鳴らす)


さて。

甘い匂いに紛れた、残酷で優しい師弟の物語……。

もうしばらく、付き合わせてもらおうか。

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