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世界最強の精神熟達者、解除不能の師弟契約で無能少女を育てることになった俺の終わらない修行の日々  作者: ちとせ鶫


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1/5

序章:――世界で一番、諦めの悪い男の話をしよう。

物語の始まりは、いつも静かだ。

 世界が大きく動くときほど、前触れは小さく、淡々としている。

 この物語も例外ではない。


地下三階の埃っぽい倉庫で、

 世界最強の精神熟達者が、

 出し殻の白湯のように薄いお茶を啜っているところから始まる。


英雄譚でも、冒険譚でもない。

 もっと小さくて、もっと厄介で、もっと愛おしい――

 そんな“ズレた師弟”の話だ。


ギルという男は、世界を救うよりも、

 静かな夜と、夢を見ない眠りを望んだ。

 ルナという少女は、世界の危機よりも、

 焼きたてのメロンパンの匂いに従う。


これは、そんな二人が出会ってしまった日の記録である。

序章 ――世界で一番、諦めの悪い男の話をしよう


 俺の名前は、エドガー・ギルバート・クインシー。

 

 長い。

 我ながら、呆れるほど長い名前だ。

 だが、親の趣味だったので仕方ない。

 クインシー家の嫡男として生まれ、六歳で精神干渉の素質を見いだされ、十二歳から王立訓練所に放り込まれた。

 さらに二十代のうちに「静寂の審判者」なる物騒な二つ名をいただいた男が、今は地下三階の埃っぽい倉庫で、三杯目の出し殻の白湯のように薄まったお茶を啜っている。


 人生とはままならないものだ。


 ......いや、違うな。

 訂正させてもらおう。

 俺の人生は、完璧な計算の上に成り立っている。

 これは敗北ではない。三十七年の思慮の末に辿り着いた、最適解である。


 聞いてくれ。

 これは言い訳ではない。

 戦略なのだ。


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――


 精神熟達者マインドマスターという肩書きをご存知だろうか。


 人の意思に直接干渉し、認識を書き換え、記憶を塗り替え、場合によっては因果の糸そのものに指先を差し込む――そういう芸当ができる人間のことを、この王国ではそう呼ぶ。

 世界百人いるかどうかという希少な能力者で、なかでも俺のような「最上位」ともなれば、国家の機密に深く関わる仕事が次々と舞い込んでくる。


 舞い込んで、くる。


 これが問題なのだ。


 人の意識というものは、触れれば触れるほど、境界を越えこちら側に滲み、浸食してくる。

 戦闘で敵将の思考を黙らせるとき、俺は一瞬だけ、その男の意識の中に踏み込む。

 踏み込んだ瞬間に見えるものがある――妻の顔。子供の笑い声。故郷の匂い。昨夜の夢の残滓。

 俺はそれを全部ひとまとめにして、静かに、消す。

 消して、任務を完遂し、次の現場へ向かう。


 三十代の中頃、俺はある夜、自分の夢を見た。


 いや、正確には――他人の夢を見た。

 俺がこれまで意識に触れてきた人間たちの、断片が混ざり合った夢だ。

 戦場の敵将。

 外交官。

 暗部の標的。

 彼らの夢が、俺の睡眠の中でひとつの川になって流れていた。


 目が覚めて、俺は長い間、天井を見ていた。

 

 これが続けば、いつか俺は、自分の夢と他人の夢の境界を失う。


 だから、出口を探した。

 

 組織の上層に近づくほど、任務の密度は上がる。

 触れる意識の数が増える。

 蓄積が進む。

 その先に何があるかは――まあ、知らなくていいことにしている。

 少なくとも、いい終わり方ではないことだけは、確かだ。


 俺は三年かけて、戦略を練った。

 目標はひとつ――定年退職金を満額でもらって、誰の夢も見ない夜を取り戻すこと。


 まず上役の認識を、少しずつ書き換えた。

「クインシーは優秀だが、精神的に繊細で激務には向かない」という印象を、三年かけてじわじわと醸成したのだ。

 強引に書き換えるのではなく、上役自身が「そう思った」と感じるように空気を作る。 俺の最も得意とする技だ。


 次に、異動願いを申請した。


 行き先は――王立広報局・特殊遺失物管理室。通称、地下の掃き溜め。


 上役は異動願いを一瞥し、三秒ほど黙ってから、告げた。


「クインシー,,,,,,お前、本当にいいのか。あそこは窓もないぞ」


「構いません」と俺は答えた。「静かな場所が、性に合っています」


 気づかれぬよう、内心では快哉を叫んでいた。


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――


 王宮の地下三階というのは、独特の空気を持つ場所だ。


 地上からここまで降りてくると、まず音が変わる。

 人の足音も、会話も、馬車の轍ができる音も、何もかもが分厚いコンクリートと石積みの壁に吸収されて、遠くなる。

 代わりに聞こえてくるのは、建物そのものの呼吸だ――冷えた空気が意思の隙間を通り抜ける、低い、持続的な音。

 それから、遺物たちのざわめき。


 遺物というのは、生きている。

 少なくとも、精神熟達者の感覚では。


 禁忌の術式が封じられた水晶。

 かつて人の意識を悔い続けた剣。

 存在そのものが「問い」の形をした彫像。

 歴史から抹消された王の日記帳――それを開いた者は、翌朝、自分が何者かわからなくなる。

 精神汚染の遺物は、棚に収まっていても、絶えず精神派を放出し続けている。


 俺以外の人間には、ただ埃っぽい倉庫に見えるだろう。


 俺には、世界の傷口に見える。


 ここに来た最初の頃は、それで済んでいた。

 俺の「認識の膜」が精神派を弾いて、遺物の影響をシャットアウトする。

 完璧な防衛だった――少なくとも、最初の頃は。


 最近、ときどき、集中が乱れる。


 ほんの一瞬だ。

 茶を注いでいる途中に手が止まる。

 在庫目録という名の帳簿を用意した。

 表向きは管理台帳だが、実際には日記帳だ。


「異常なし、継続管理中」――これが俺の基本フォーマットだ。


 誰も、ここには来ない。

 俺は、俺の夢も見ない夜を取り戻した。


 あとは定年まで、ここで茶を啜り続けるだけだった。 


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――


 問題が起きたのは、あの秋の午後だった。

 僕は棚の影の椅子に腰を落ち着け、三杯目のお茶を注いだところだった。

 午後の薄明かりが、ちょうど膝のあたりを照らしている。

 遺物たちは大人しい。

 在庫目録には「異常なし」と書いた。


 静かだ.....。

 穏やかだ。

 ああ、お茶が旨い――と思おうとして、ふと気づく。

 空腹だと。そういえば、昼を抜いていた。

 いや、もしかしたら昨日の夕食も曖昧だったかもしれない。

 最近、食事を忘れる、摂らないことが増えた。

 わざわざ地上にでるのが面倒だ。

 

 まあいい。お茶を啜る。


「......侵入者」


 俺の意識が、反射的に警告を発した。


 精神熟達者としての本能だ。

 俺は常時、この部屋の中に「認識の薄い膜」を張っている。

 棚の配置ひとつとっても、俺の認識圏の中に収まっている。

 誰かが入ってくれば、すぐにわかる


 けれど――おかしかった。


 足音が聞こえない。

 気配が、異様に薄い。

 膜が揺れたのに、その揺れ方が微妙だった。

 侵入というより、まるで布に水が染み込むように、じんわりと自然に滑り込んでくる。

 その存在はすでに、ここに在る。


 このような精神の在り方は、長い修行を積んだ者が持つ「精神の静謐さ」に似ているが――しかし訓練されたそれとも違う。もっと、根本的な何かだ。


 俺は飲みかけの湯飲みを置き、棚の影から顔を覗かせる。

 そこには、ひとりの少女が立っていた。


 銀色の髪。

 深い藍色の瞳。

 ゆったりとした清廉な装いで、地下倉庫の中央に立ち、棚のラベルをひとつひとつ確かめながら、周囲を見回している。

 年は十五か十六か。

 遺物の棚に並ぶ物騒な品々――封印の模様が刻まれた箱、禍々しい光を放つ水晶、ぼろぼろに朽ちた書物――を前にして、まったく臆した様子がない。


 俺は、この子の精神波を読んだ。


 ......。


 これは......。


 精神熟達者として、三十年以上生きてきた俺が、初めて、言葉を失った。

 この少女の精神の「器」が――途方もなく、深い。


 精神熟達者の素質というのは、突き詰めれば「器」の問題だ。

 大きく、深く、静かであればあるほど、術式は安定する。

 精度が上がる。

 俺がこれまで見てきた最大の器は、かつて同期のものであったが――この少女の器は、そのあいつを軽く上回っていた。


 しかも、その器の中が――完全に、静かだ。

 

 遺物たちが放つ精神波が、こちらには重く淀んで感じられる。

 だが、この少女の意識は、その中にあって、水面が凪いだような静謐さを保っている。

 雑念がないのだ。

 思念の揺らぎがない。

 防衛反応、攻撃的な反応もない。

 ただ、深く、静かに、そこにある。


 これは訓練を積んだとしても、なかなか到達できる域ではない。

 

 俺は思わず立ち上がっていた。

 

 少女が顔を上げ、そして俺を見つめて、にっこりと笑った。


「あの、すみません」

「......何だ」

「ここ、メロンパンの匂いがしませんか?」


 ......。

 俺は、きっちり三秒。完全にフリーズした。


「......は?」

「ほら、バターと砂糖が焼ける匂い。甘くてぇ、ちょっとサクサクしていう感じの、あれですよぉ。このあたりから、漂ってくるんですけれど」


 少女は鼻をひくひくさせながら、棚と棚の間を覗き込んでいた。

 そのまま、ごく自然な動作で、手近な棚に手を伸ばした。


「ちょっと待て」


 俺は反射的にその動作を止めようと踏み出す。その棚の二段目――封印の紋章が刻まれた黒い木箱。触れた者の認識を三日間、外部から遮断する遺物だ。素手で触れれば、最低でも一週間は自分の名前すらも答えられなくなる。


 この少女の指先が、木箱の縁に触れようと近づく。

 と、その直前で止まった。


 俺が「認識の壁」を薄く展開して、手をそっと逸らしたからだ。


 少女は気づいていない。

 そもそも、そちらをもう見ていなかった。

 視線は奥の棚の、どこか遠い一点に向いている。


「......あっちのほうが匂いが強いかも」


 そう呟いて、棚の奥へ進もうとした。


 俺はこめかみを押さえた。

 怖いのは、この子が怖いもの知らずだということではない。

 怖いのは――「怖い」と感じる回路が、今この瞬間、完全に別の処理に使われているということだ。

 

「ここに......メロンパンなんて、ないぞ」

「えー。でも、確かに匂いがするんです。わたし、こういうの得意で。半径三キロのコロッケの匂いも察知できるくらいで」

「......それは能力なのか、それとも呪いか」

「えっと......食感知フード・サーチ、って自分では呼んでます。食べ物に関する精神波を感じ取るイメージです。料理人のひとが、隠し味を入れるときの波長とか、わかったりします」


 彼女は、腰に手を当てて、ふんっとドヤ顔で語る。

 それを聞いた俺は、こめかみを二本指で押さえた。

 食感知、精神波で食に関わるものを察知する能力。

 聞いたことがない。


 だが、この少女の器は本物だ。

 才能がどうあれ、これほどの器を見過ごすことは――。


 ふと、少女が、もう一度鼻をひくひくさせた。


「......やっぱりメロンパン......食べたいなぁ」


 俺の分析が、一瞬、止まった。

 ああ、そういうことか。

 この子の意識の「静謐さ」の招待を、その一言で理解した。


 雑念がないのではない。

 ほかの思念が入る余地がないほどに、純粋に別の何かで完全に埋まっているのだ。

 それがこの子の精神を「深く澄んで」いるように見せている。

 悟りでもなく、修行の成果、でもない。

 これはただの――。


「......精神熟達者の訓練を、受けたことは?」

「ないです。ていうか、精神干渉の方向の才能は、完全にゼロって言われてます」

「そうか......」

「でも、食感知はすごいって褒められます! 昨日も、隣町の夜市のたこ焼きを、風向きが逆なのに当てました! すごくおいしかった」

「名前は?」

「ルナです。あなたは?」

「ギル。クインシーだ:

「ギルさん。......あの、本当にメロンパン、ないですか?」

「ああ、ないな」

「そうですか......」


 ルナと名乗った少女は、しょんぼりと肩を落とした。

 地下倉庫の薄明かりの中で、遺物の棚を背景に、銀髪の少女が静かに肩を落としている。「悲しんでいる聖女」というビジュアルだ――実際は食べ物を探しているだけなのだが。


 問題は、この子がその「聖女」のビジュアルに、まったく無自覚という点だ。

 着飾ってもいない。

 演じてもいない。

 ただ在るだけで、そう、絵になる。

 

 お俺は精神熟達者として、人の「演技」と「素」を長年読み続けてきた。


 この子の「素」は――少し、怖い。

 何かが「ない」のではなく、何かが最初から「そこにない」種類の無垢さだ。

 欠落ではなく、構造の話だ。

 遺物の棚が並ぶ物騒な品々を前にして、この子が一切怯えなかったのは、勇気があるからではない。

 その「危険」という概念g、この子の今の優先順位に存在していないからだ――メロンパンに比べて。


 ......さっさと追い出すべきだ、と俺は思った。

 思ったのだが。

 この器の深さを、俺はどうしても手放せなかった。


 精神熟達者としての本能が、誤った方向に――

 静かに、しかし確実に、動き始めていた。


 やめろ、と俺は思った。

 この器を、もう少し深く見てみたい、とも思った。


 二つの思考が交差した、そのわずか〇.五秒の瞬間に――何かが、滑った。


 遺物の精神波か。

 俺自身の集中の乱れか。

 あるいは、昼を抜いたせいの些細な判断の緩みか。

 理由は後で考えればいい。


 俺の指先が、動いた。


 血契の術式が、俺の精神から流れ出た。

 気づいたときには、もう遅かった。


「......あ」

「......あ」


 俺たちは同時に、同じ声を上げた。


 温かいような、重たいような、取り返しのつかない感覚が体の芯を満たす。

 師弟の絆が、結ばれた。


 沈黙が、地下倉庫に落ちた。

 遺物の棚が、かすかにざわめいた。

 封印の水晶が、一瞬だけ、淡い光を放った。


 ルナが首を傾げた。


「......なんか、ふわっとしました」

「......そうだな」


 その瞬間、かすかに甘い匂いがした気がした。

 バターと砂糖の、焼けた匂い。


 ――これは俺の感覚ではない。


「なんか、ギルさんのお腹の空き具合が、すごくはっきりわかるようになりました」


 俺は数秒、硬直した。


 ......そうか。師弟のリンクが繋がったから、俺の空腹がこの子に流れた。

 なるほど。

 ということは逆もしかりで、この子の空腹が俺に――


 その瞬間、俺の腹が、低く鳴った。


 ......これは、どちらの空腹なんだ。


「ギルさん、あ、ししょー!」ルナが急に背筋を伸ばした。

「師弟って、師匠が弟子のご飯を面倒みてくれるんですよね!?」

「......どこでそういう知識を」

「ご本で読みました! 師弟修行って、まず腹ごしらえから始まるって!」

「それは、武術の話だろう......」

「ししょー! ここから一番近いパン屋さん、どっちですか? あ、こっちかな?」

 

 嬉しそうに天井をキョロキョロ見回すルナを傍らに、俺もしばらく天井を見上げた。


 地下三階にも、もちろん天井はある。

 低いコンクリートの、染みだらけの天井だ。


 師弟関係(血契)については、俺はひとつ、説明していないことがある。

 後でルナには話すべきことがある――この契約には、幾つかの条項が存在する。

 互いの感覚が繋がること。

 解除ができないこと。

 そして――

 

 まあ、今すぐ言う必要はない。

 俺はなんとなく、裾の誇りを手で払い、コートを羽織ってボタンを止めた。


「......行くぞ、ルナ。まず――」

 一瞬、迷った。

「,,,,,,パン買ってから、説明だ」


 ルナは、さらに輝くという表現がぴったりの満面の笑みを浮かべ「やったー!」と叫んだ。地下にその叫びは響き、こだまする。

 無機質な地下倉庫に不似合いな、流麗な銀髪が翻る。

 それに呼応してか、遺物の棚がびりびりと震え、封印の水晶が再び淡く光った――

 今度は、どこか呆れたように。


 傍らで即興の「メロンパンの歌」を口ずさむルナを見て、

 俺の胃が、じくじくと痛み始めていた。


 もう一度、甘い匂いがした気がした。

 バターと砂糖の、焼けた匂い。


 ――それが自分の腹から来ているのか、

 ルナの精神波の影響なのか、

 もうよくわからなかった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

 序章は“静かな崩壊”の瞬間を書きました。


ギルは、長い年月をかけて積み上げた“静寂の人生計画”を、

 たった一人の少女に、あっさりとひっくり返されます。

 しかもその理由が、よりによってメロンパンの匂い。


ルナは無自覚で、無邪気で、そして致命的にズレている。

 ギルは冷静で、慎重で、そして致命的に諦めが悪い。


この二人が結んでしまった“解除不能の師弟契約”が、

 どんな未来を引き寄せるのか――

 ギルの胃痛とともに、ゆっくり見守っていただければ幸いです。


次章からは、

 ルナの“食感知”がどれほど世界をかき乱すのか、

 そしてギルがどれほど静寂を失っていくのか、

 そのあたりを描いていきます。


どうぞ、もう少しだけお付き合いください。

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