第14話 大騒ぎの遺物と、ルナと、地下が揺れた夜
《ヴェスタ》十五日。
地下三階がざわつき、壁龕が飽和し、俺の胃はそれどころではなくなりました。
ルナは走り、俺は針穴を開け、地下が揺れます。
そんな夜の話です。
《ヴェスタ》の月の十五日。
それは、特に何の予兆もなく始まった。
朝の巡回でルナが「なんか、全体的にざわざわしてます」と言った。
「どの棚だ」
「どの棚というか……全体的に、です。
なんか、普段の地下の匂いと違う感じがします」
「どう違う」
「なんか……緊張してる感じ、みたいな?」
俺は在庫目録を置いた。立ち上がって、自分でも感知した。
確かに——何かが、いつもと違う。
精神波の全体的な底上げ、とでも言えばいいか。
個々の遺物ではなく、地下三階全体の精神波の「地盤」が、
微細に揺れている。
こういう現象は、複数の遺物が連鎖的に反応しているときに起きる。
「どこが一番強いか、わかるか」
ルナが目を閉じた。鼻をひくひくさせた。
「……一番奥です。棚の、一番奥の方から来てます」
* * *
棚の最奥に、古い木製の壁龕があった。
俺がここに赴任してから、一度も開けたことがない。
在庫目録には「壁龕・封印済み・内容物不明・開封禁止」とだけ書いてある。
前任者の記録も同じだ。
さらに前の記録も、同じだ。
何十年も前から、誰も開けていない。
その壁龕から、精神波が漏れていた。
微細ではなく——かなり、漏れていた。
「ルナ、下がれ」
「え、でも——」
「下がれ」
言葉の端から何かを感じ、ルナが後ろへ下がる。
入れ替わるように、俺は壁龕に近づいた。
封印を確認した。
外側から見る限り、封印の紋様は無事だ。
亀裂もない。
しかし、精神波は漏れている。
封印の内側から、何かが「押している」のではなく——
封印の素材そのものが、何かを「通している」。
これは、封印の劣化ではない。
封印が「飽和」している。
中の精神波の密度が限界を超えて、
封印の素材の分子レベルの隙間から滲み出している状態だ。
このまま放置すれば、封印が破裂する。
「ルナ」
「はい!」
「今すぐ、螺旋階段を上がれ。地上に出て、守衛に知らせろ。
『地下三階の最奥壁龕から精神波の漏出あり、緊急対応要請』と伝えろ。
そのままで待て」
「ししょーは?」
「俺はここにいる」
「一人でですか?」
「いいから行け」
「でも——」
「ルナ」
俺は、ルナを見た。
「走れ」
ルナが、一秒だけ俺を見て——それから螺旋階段へ向かって走った。
足音が遠くなった。
* * *
一人になった。
俺は壁龕の前にしゃがんだ。
封印の飽和というのは、稀な現象だ。
だが、百年以上密封されたままの遺物なら、起きないことはない。
問題は——中身が「内容物不明」だということだ。
未知の遺物が、封印の限界近くまで精神波を蓄積している。
取り得る選択肢は三つだ。
一つ、封印を強化して飽和を抑える。
ただし、中身がわからない遺物への封印強化は、逆効果になるリスクがある——
遺物の種類によっては、圧力をかけることで爆発的に反応する場合がある。
二つ、封印を部分的に「緩めて」精神波を少しずつ逃がす。
コントロールが極めて難しいが、飽和の爆発的な解放は防げる可能性がある。
三つ、なにもしないで待つ。
組織の対応チームを待つ。ただし、その間に封印が持つかどうか——わからない。
俺は三十秒、考えた。
二つ目の方法を選んだ。
* * *
精神波を少しずつ逃がすには、封印の一点に極めて細い「針穴」を開ける。その針穴から、コントロールしながら精神波を外に流す。同時に、漏れた精神波が周囲に広がらないよう、俺が「受け皿」になって吸収する。
体に悪い。
はっきり言えば、非常に体に悪い。未知の精神波を自分の意識に流し込むのは、職業的な自殺に近い行為だ。しかし、「受け皿なしで針穴を開ける」と、精神波が地下三階全体に充満する。そうなれば、後から来る対応チームへの影響も出る。
やるしかない。
俺は封印に指先を当てた。
術式を組んだ。
針穴を開けた。
---
最初の精神波が流れ込んできたとき、俺は一瞬、それが何かわからなかった。
「感情」だった。
遺物の精神波が感情の形を持つことは、ある。
記憶の残滓がそうだ。
ただ、通常は「残り香」のような薄さだ。
しかしこの壁龕から流れてきたものは——濃かった。
強烈な、混乱した感情の塊だ。
恐怖と怒りと、何か別のものが混ざり合っている。
人間のものではないかもしれない。
あるいは、複数の人間のものが混ざり合っているのかもしれない。
俺は「受け皿」として、それを受け取った。
受け取りながら、針穴のサイズをコントロールしながら、
精神波の流れを調節した。
多すぎれば俺が持たない。
少なすぎれば封印の圧力が下がらない。
均衡点を探しながら、作業を続けた。
どのくらい時間が経ったか。
背後で、螺旋階段を複数の足音が降りてくる音がした。
「クインシー主任!」
組織の対応チームだった。
三人。
精神波の防護術式を展開しながら、俺の方に近づいてくる。
「状況は」
「壁龕の封印が飽和状態だ。今、精神波を少量ずつ逃がしながら、
徐々に圧力を下げている。俺が受け皿になっている。
代わりに誰かが続けられるか」
チームのリーダーが、状況を確認した。
「......針穴の制御を、受け取ります。離してください」
「わかった」
術式の制御を、リーダーに渡した。
俺は壁龕から少し離れた。
背中が、重かった。
受け取った精神波の一部が、まだ意識の底に残っている感じがした。
* * *
対応チームが封印の処置を進めていた。
俺は少し離れた棚の前にもたれて、意識を整えた。
未知の精神波を受け取ったあとは、しばらく「自分の精神波」に集中して、
異物を切り離す必要がある。
そのとき、螺旋階段から、走る音がした。
軽い足音だ。
「ししょー!!」
ルナが降りてきた。俺を見つけて、駆け寄ってきた。
「来るな、と言った」
「守衛の人に渡してきました! ちゃんと伝えました!」
「だから戻ってくるなと言った」
「でも、ししょーが一人で——」
「俺は大丈夫だ」
「大丈夫ですか? なんか、顔が——」
「大丈夫だ」
ルナが、俺を見た。
俺の顔が、どう見えているかは、わからない。ただ、ルナの表情が、いつもとは違う。「おなかすいた」でも「やった!」でもない。もっと、静かな、心配の顔だ。
「……なんか、ししょーから、重たい感じがします」
「精神波の余波だ。じきに消える」
「重たいって、どんな感じの重たさですか」
「嫌な重たさだ」
「そっか」
ルナが、俺の隣に、ただ立っていた。
何も言わずに、立っていた。
対応チームが作業を進める音が、棚の向こうから聞こえた。
俺は意識の整理を続けた。
ルナが隣で、じっとしていた。
師弟リンクを通じて、何かが流れてきた。
「心配している」というのとは、少し違った。
もっと静かな、「ここにいる」という感覚だ。
俺は何も言わなかった。
* * *
対応チームが壁龕の処置を完了したのは、夕刻近くだった。
封印を一時解除して内部を確認し、新しい封印を施した。
中身は——複数の精神干渉の遺物が、
長年の間に互いの精神波を増幅させ合った結果、
飽和状態になっていたものだった。百年以上、誰も知らなかった。
チームのリーダーが俺に言った。
「主任、よくあの状態で一人で制御されましたね。
対応チームへの連絡が遅れていたら、封印が破裂していた可能性があります」
「弟子が早く知らせてくれた」と俺は答えた。「早期報告のおかげだ」
「......弟子の方が気づいたんですか。早いですね」
「そういう能力がある」
リーダーが、ルナを見た。ルナが「えへへ」と笑った。
チームが引き上げた後、地下三階に静寂が戻った。
* * *
ルナが帰る前に、俺に言った。
「ししょー、すごかったですね」
「何が」
「あの、棚の奥で一人で対応してたの。怖くなかったですか?」
「怖くない」
「ほんとですか?」
「......たいしたことではない」
「そっかな〜」 ルナが、少し考えた。「わたしは怖かったです。走りながら、ししょーのこと、心配で」
「言われた通りにしただろう」
「はい。でも、心配でした」
と、何かを感じて、ルナを見ると、とたんにぐしゃっと泣き崩れた。
えぐえぐ、嗚咽を漏らしながら。
きっと、緊張の糸が切れたのだろう。
怖い思いをさせてしまったな。
「ほんとに、心配したんですよ。ししょー」
だから、そっとその頭に手を置いてやった。
それ以外、できなかった。
* * *
しばらくして、落ち着きを取り戻した地下三階で、
俺は在庫目録を開いた。
「今日の報告書には、お前の早期感知と迅速な通報を記録する。実績として残る」
「そっか。……ししょー」
「なんだ」
「大丈夫でしたか、ほんとに」
俺は、ルナを見た。
「大丈夫だ」と言った。
嘘ではない。
ただし、「多少、意識に残ったものがある」という事実は、言わなかった。
「おやすみなさい」とルナが言って、螺旋階段を上がって帰っていった。
* * *
地下三階に一人になってから、俺はしばらく、壁龕の前に立った。
新しい封印が施されていた。安定している。
俺の意識の底に、まだわずかに異物が残っている。
恐怖と怒りと、何か別のものが混ざり合ったもの。
これは数日で消えるだろう。
慣れた作業だ。
在庫目録を開いた。
《ヴェスタ》十五日。
・壁龕の封印飽和事案。ルナが全体的な異変を早期感知。
通報が適切かつ迅速だった。俺が針穴制御を担当、
対応チーム到着まで一人で処置。終了。
・弟子の感知精度:今日は文句なし。
・実績:重大事案への貢献として記録済み。
・意識への影響:軽微、数日で消える(予定)。
・胃痛:本日はなかった。
・理由:それどころではなかった。
ページの端に書いた。
(付記)ルナが、隣でじっとしていた。何も言わなかった。それで、よかった。
大騒ぎの夜でした。
ギルは針穴制御、ルナは全力疾走、地下は揺れ、最後は涙。
でも、ふたりとも無事です。
次回も地下三階でお待ちしています。




