第12話 冬支度と、言語化訓練と、ルナが初めて泣きそうになった話
《ヴェスタ》の月に入り、地下三階にも冬の気配が近づいてきました。
今日からルナの“言語化訓練”が始まります。
俺は三十年かかったが、弟子には百五十日しかない。
……まあ、なんとかする。
《ヴェスタ》の月の一日。
《ヴェスタ》——守護の女神の月だ。
冬支度の季節だ。
城下町では、家々が窓に厚い布を張り始め、路地の露店が数を減らし、
王宮の廊下にも薄い隙間風が通るようになる。
地下三階には相変わらず季節の移り変わりが来ないが、
空気孔から流れ込む風の冷たさが、ひと刻ごとに増している。
俺は今月から、ルナの訓練に「言語化」の課題を加えることにしていた。
感知したことを、他人が理解できる言葉にする。それだけだ。難しいことではない——と思っていた。
だって、俺はふつーにできるから、あれだけ敏感なあいつなら、
できると思ったんだ、簡単だって。
* * *
朝の第二刻。ルナが降りてきた。
今日は手にメロンパンを持っていた。
「先に食べてきます」と言いながら、食べながら降りてきた。
まあ、お嬢さんらしい。褒めてないよ。
《オーレン》の月の初日に「気合いを入れてきました」と言っていた子と、
同一人物とは思えないが、まあ、こういうものだ。
「おはようございます、ししょー」
「来るのが早いな」
「今日から新しいこと始まるじゃないですか。楽しみで早く目が覚めました」
「そうか」
ちょっと、弟子の気合の入りように、顔が緩みそうになるのを、
意識して引き締める。今日も俺、決まってるだろ?
OK。大丈夫だ。
「言語化って、どんなことするんですか?」
「お前が感知したことを、言葉にする訓練だ」
「いつもしてますよ?」
ですよねー。
でも、あなたはいつも―—
「おいしそうな匂いがします」とか、
「甘い匂いがします」とか、
「メロンパンの匂いがします」とか、
言ってませんでしたっけ?
違いましたっけ?
「もう少し正確に、だ」
ルナが、メロンパンを一口食べながら考える顔をした。
「……どのくらい正確に?」が「ほのぐらいふぇいふぁくに?」って聞こえるのは、
おじさんだから耳が遠くなったんですかね。
いや、ちゃんと口の中のもの食べ終わってから、話しなさい。
「お前の感知を聞いたことのない人間が、状況を正確に把握できる程度に」
「それって、すごく難しくないですか」
あ、メロンパン食べ終わったんだね、よかったね。
おかげではっきり聞こえるよ。
「難しい。だからやる」
「そうか〜」
気合が入っているようで、「よしっ」って、
ルナは小さく胸の前でガッツポーズしてる。
ふんっって鼻息まで。こいつは。
* * *
最初の課題は、棚の巡回を終えたあとに行った。
「今日の巡回で感知したことを、全部言葉にしろ」という指示だ。
ルナが、真剣な顔で口を開いた。
「えっと、まず、右の棚の二段目の箱が、いつもより少し静かな感じです。
なんか、落ち着いてる感じというか——」
「それは二段目の左から三番目の箱か、右から三番目の箱か」
「……え。どっちかな」
「どっちだ」
「ちょっと待ってください。もう一回確認してきます」
ルナが棚に戻った。三十秒後に帰ってきた。
「左から三番目です」
「続けろ」
「えっと、落ち着いてる感じで、先週より少し穏やかになってます。
あと、その隣の、いつも少し焦げたような匂いがする箱は、
今日は焦げた感じが少なくて」
「『焦げた感じが少ない』というのは、封印が安定しているということか、
それとも遺物の活動が弱まっているということか」
「......どっちだろう」
「どっちだと思う」
「う〜ん......安定してる感じがします。なんか、おとなしくなってる感じというか」
「『安定』と『活動が弱まる』は、精神波の質が違う。お前はどちらの匂いだった」
「......おとなしくなってる方だと思います」
「それは安定か、弱まりか」
「......わからないです」
ルナが、少し困った顔をした。
俺は在庫目録を開いた。
「これを見ろ」
先月の記録を開いて、ルナに見せた。
同じ箱の記録が、一か月分ある。
「この箱の精神波の変化を、俺は毎日記録している。『焦げた感じ』というのが、封印の劣化傾向と一致しているときと、遺物の活動低下と一致しているときで、『焦げ方』が違うはずだ。どう違うか、覚えているか」
ルナが、記録を見ながら考えた。
「……劣化してるときの焦げは、なんか、にがい感じがします。活動が弱まってるときは、もっと、しめった感じ」
「今日はどっちだった」
「……しめった感じ、でした」
「では、今日の報告はこうなる」。俺は在庫目録に書きながら言った。
「『左から三番目の箱:精神波の質が変化。焦げた匂いがしめった方向に変化。
遺物の活動が弱まっている可能性あり。要観察』。これが、言語化だ」
ルナが、記録を覗き込んだ。
「......わたしが言ったことより、ずっと短いですね」
「情報は多ければいいというものではない。必要なことだけを、正確に書く」
「そっか〜」 ルナが、少し考えた。「......難しいですね」
「難しい。だからやる」
「ししょー、それさっきも言いましたよ」
「二回言うくらい大事だということだ」
そう、大事だから、二回言った。
* * *
午後も、言語化訓練は続いた。
棚の一点を感知させて、それを言葉にさせる。
俺が「もっと正確に」「どちらか選べ」「その言葉で何が伝わるか」と繰り返す。
ルナが考えて、言い直して、また考える。
三時間ほど続けたところで、ルナが「……難しい」と言って、床にしゃがんだ。
「まだ終わっていない」
「わかってます……でも、なんか、頭が痛い」
「慣れない作業をしたからだ」
「ししょー、わたし、こういうの苦手ですか?」
俺は手を止めた。
「何の話だ」
「言語化。なんか……感じることはできるんですけど、
それを言葉にしようとすると、ぐちゃぐちゃになって。
うまくできなくて。これって、センスがないってことですか」
ルナが、床を見ながら言った。
俺は、ルナをしばらくじっと見つめた。
珍しい。
この子が「できない」という方向で悩むのは、あまり見たことがない。
大抵は「なんとかします!」か「えー!」で終わる。
今日の午後の訓練が、それなりに負荷だったらしい。
まあ、俺のような天才と比べたら、しょうがないがな。
これは、経験で慣れて、強くしていかないとだから、
根気がいるんだ。でも焦ってはダメだ。
お嬢さんは感覚派だから、イメージをつくるときに、
言語化できれば化けるんだよ。マジで。
「センスとは関係ない」と俺は言った。
「でも、ししょーみたいには言えないです」
「俺は三十年以上やっている」
「そうか……三十年か〜」
「お前は今日、初日だ」
「そうですね」
「今日できないことが、三十年後にできるかどうかは、今日の話じゃない」
ルナが、顔を上げた。
「……じゃあ、今日できなくてもいいですか?」
「今日はできなくていい。ただし、明日は今日よりほんの少しだけ正確になれ。
それだけでいい」
「ほんの少しだけ」
「そうだ」
ルナが、少し考えてから、「はい」と言った。
静かな返事だった。いつもの「はい!」じゃない。
少し重さのある、「はい」だった。
俺は在庫目録に目を戻した。
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夕刻近く。
ルナが巡回から戻って、机の横にしゃがんだ。
今日の後半の感知を言語化する、最後の課題だ。
「えっと、奥の棚の記憶の残滓の箱は——
今日は、なんか眠そうな感じが続いてます。穏やかです。
あと、先月来た新しい箱は、まだ落ち着かない感じで——
でもでも、危ない感じはしないです。
なんか、新しい場所に慣れようとしてる感じ、みたいな」
「新しい場所に慣れようとしている、というのは、どういう意味だ」
「なんか……遺物って、場所に馴染むのに時間がかかることありますか?
最初はそわそわしてて、だんだん落ち着いてく、みたいな」
俺は少し、考えた。
「遺物が場所に馴染む」という概念は、
精神熟達者の世界では正確には使わない。
しかし——ルナが言っていることは、
精神波の安定化プロセスとして、実態に近い。
「ある」と俺は言った。「精神波が、周囲の環境と馴染んでいく過程がある。
お前の表現は、完全に正確ではないが、遠くもない」
「そうですか」 ルナが、少し顔を明るくした。「じゃあ、言語化できてましたか?」
「今日の後半は、午前より良くなったな」
「ほんとですか!」
「ほんの少しだけ、だが」
「ほんの少しでも!」
ルナが、ぱっと笑った。
その笑顔が、今日は朝よりも少し、違う重さを持っていた気がした。
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ルナが帰る直前、コートを羽織りながら言った。
「ししょー、一個聞いていいですか」
「なんだ」
「ししょーって、最初からこんなに正確に言葉にできてましたか?」
俺は、少しの間、間を置いた。
「できていなかった」
「そうですか」
「十二歳のときに訓練所に入って、正確に報告書が書けるようになるまで、三年かかった」
「三年!」
「言語化は、感知の能力とは別の技術だ。俺も最初は、お前と同じくらい曖昧だった」
「……ししょーにも、そういう時期があったんですね」
「あった」
ルナが、ふっと笑った。
「なんか、ちょっと安心しました」
「安心するな。お前には三年はない。査定まで百四十日ほどだ」
「え、そんなに短いんですか?」
「計算しろ」
「ええっと……《エルネ》の月が査定で、今が《ヴェスタ》の月の一日で……《ヴェスタ》が三十日、《ノクス》が三十日、年が変わって《アルデン》が三十日、《セイラ》が三十日、《ヴォルク》が三十日、《エルネ》まで……百五十日?」
「百四十八日だ」
「……そっか」
ルナが、数字を咀嚼するような顔をした。初めて「査定」というものを、具体的な日数として実感した顔だ。
「ギル、さん」
ルナが、珍しく「ししょー」ではなく、名前で呼んだ。
「なんだ」
「査定って……もし、うまくいかなかったら、どうなるんですか」
俺は、一瞬だけ止まった。
止まったのを、ルナに悟られただろうか。わからない。
「心配するな」と俺は言った。
「でも」
「うまくいくように、俺がやる」
「……ししょーが?」
「そうだ」
「ししょーが、うまくやってくれるってことですか?」
「そういうことだ」
ルナが、しばらくギルを見ていた。
それから、「はい」と言った。
今日二度目の、静かな「はい」だった。
「おやすみなさい、ししょー」
「ああ」
* * *
螺旋階段が静かになった。
俺は在庫目録を開いた。
「うまくいくように、俺がやる」——言ってしまった。
これは正確ではない。「俺がやる」というのは、
「俺がズルをやる」ということだ。ルナは知らない。知る必要はない。
ただ——「査定って、もし、うまくいかなかったら」という問いに、
正直に答えることは、今の俺にはできない。
言わないことにした。
それだけだ。
俺は在庫目録に書いた。
《ヴェスタ》一日。
・言語化訓練・初日。
午前:精度低、要改善。午後:ほんの少し向上。
弟子の負荷:想定より高かった。「ほんの少しだけ正確になれ」で落ち着いた。
査定まで百四十八日。
ルナが初めて査定の日数を具体的に認識した。
「うまくいくように、俺がやる」と言った。
・胃痛:本日は中程度。
ペンを置いた。
机の端の石を見た。三個、並んでいた。
冷めた茶を一口飲んだ。
《ヴェスタ》の月が、始まった。
言語化訓練、初日からなかなかの修羅場でした。
ルナは泣きそう、ギルは胃が痛い。
でも、こういう日を積み重ねていくのが“師弟”なんだと思います。
次回も、地下三階でお待ちしています。




