23.花散る里に口づけを
夜はさらに深まり、いよいよ寝支度を調えなくてはならない時分。これ以上の夜更かしは朝寝坊に繋がるし、明日の授業に支障をきたしかねない。学生である以上学業が本分なので授業中の居眠りだけは避けたいところだ。
そわそわと周囲の様子を窺っていた私を見かねて、フィオさんが「さてさて宴もたけなわですが」と締めの言葉を放った。流石ギルドマスターをやっているだけあって気配りができると感心したが、完全に飲み会のノリである。
「飲み会のノリになっとるで」
私の想いを代弁するかのようにアンナさんが指摘した。
「すみません。いつも幹事やらされているから、つい癖で。一本締めしましょうか?」
「せんでいい」
ビシッとキレの良いツッコミが入る。こうしてこの度の歓迎会はフィオさんとアンナさんの夫婦漫才で締め括られたのだった。
「やだ、とっくにシンデレラタイム過ぎてるじゃない。しっかりスキンケアして寝ないと……おいクソ女。化粧したまま寝るとかナシだかんね」
「へーきへーき。つけっぱなしでも大丈夫なファンデに変えたし。抜かりはないで」
気をつけるところが違うような。テディさんは大きくため息を吐き、「根本的に間違ってるわ、それ」と苦言を呈した。
「アンタ今から枯れているようじゃ数年後どうすんのよ。後悔してからじゃ遅いのよ」
「だあって仕事つらいんやもん~。ちょっとくらい横着したっていいじゃんか。いくら小奇麗にしていても、男に縁がないようじゃあ意味ないし。ああ~会社行きたくないぃい。会議出たくないぃい」
いつもの威勢はどこへいったのやら、アンナさんは力なく地面にくずおれ、愚図り出した。テディさんは「世話が焼ける子ね」と言って彼女の背を優しく撫でる。
「いつかアナタだけの王子様が現れるかもしれないじゃない。それまでは自棄を起こしちゃだめ。いいわね」
「く、くまちゃん……! 今なら抱かれてもいい! もしウチが売れ残ったらもらってやってぇえ」
「いくらアタシがタチだからって、女を抱く趣味はないわ。だけど、胸と肩ならいくらでも貸したげる」
「おお、心の友よ……!」
ガシィッ! と熱い抱擁を交わす二人を前に、外野の私たちは空気も同然である。
罵詈雑言が飛び交うほどの大喧嘩をしたかと思えば、竹馬の友のように仲睦まじく寄り添っていたりするので、この二人の友情はつくづくわからない。
「タチなのか」
ジーンは愕然とした。
「女同士の友情って時々よくわかんないよね」
「ねえカノン君がそれ言う? 言っちゃう?」
「ジーン、お尻押さえてどうしたんだい。もしかして君もデスクワークで……?」
「ちっげーよ! なんで気にしてねえの!? お前らちょっとは危機感持てよ、明らかにやべーだろ!」
夜はいみじくも更けていく。
*
昨日のどんよりとした雨雲はとうに去りゆき、柔らかな陽射しと風薫る新緑の季節を肌で感じる昼休み。正午の教室内は非常に居心地が良く、昼寝をするのにうってつけだった。
お弁当を綺麗に平らげ身も心も満たされた私は、制服のリボンタイを解き、首元をくつろげた。そして、腕を組んで椅子にもたれるような体勢を取ると、そのまま居眠りに転じた。
開け放たれた窓。吹き抜ける緑の風。翻るカーテン。誰かの足音、話し声――ありふれた日常。ささやかな幸せはこんなにも身近にあったのだ。
しかし、そのひとときはシャボン玉のように、儚い。
こっくりこっくり船を漕ぐ私のもとに来訪者が現れたのだ。
どんなに夢の世界に足を浸かっていようと、自室のベッドとお気に入りの枕がなくては熟睡できない性格のため、忍び寄る気配にはひどく敏感なのである。
眠いわ満腹だわで指一本動かすことさえも億劫だが、気だるい身体に鞭を打ってでもその正体を突き止めねばならない。万が一にもそいつが佑香で、良からぬ事を考えているのであれば、今日こそ現場を押さえ、とっちめてやろうという心積もりだった。
内心息巻きながら薄目を開けてみると、近年滅多にお目にかかれないような濡れ烏色の髪が視界を掠めた。しっとりと艶やかに揺れるそれはなんと美しいことか。ほう、とため息を漏らす。ひょっとしたらこれは夢なのかもしれない、と思った。
吸い寄せられるように私はそれを手繰り寄せると、指で絡め取り口付けを落とした。微かな甘い香りが鼻腔をくすぐる。嫌みのない奥ゆかしいにおいだ。柑橘系……花橘だろうか。
花橘といえば、光源氏が詠ったあの歌を思い出す。
「――花散里」
髪の毛はさらさらと私の手からすり抜け、零れ落ちてゆく。すっかり現実に戻り、泡沫の夢から覚めた私ははっと面を上げた。委員長の五十嵐さんだった。
「五十嵐さん! 無意識で、その」
寝ぼけてたんです、馴れ馴れしく触ってごめんなさいと椅子を倒さんばかりの勢いで席を立ち、謝罪した。五十嵐さんは細い肩を震わせ、顔を赤らめている。
「花橘の、柑橘系の良いにおいがしまして……出来事だったんです!」
私は叫んだ。出来心だったんです……出来心だったんです……とそれはひどく頭の中で木霊した。よく考えたら痴漢の常套句だ。己の軽率な発言にますます膝を折りたくなってきた。
ともあれ、五十嵐さんの反応がないのが一番怖い。ちらと彼女の様子を盗み見ると、わなわなと震える唇で懸命に言葉を紡ごうとしているところだった。私は辛抱強く彼女の言葉を待った。
「花散里って」消え入りそうな声でおずおずと彼女は言った。「源氏物語の?」
予想外の反応だった。
「そ、そう。光源氏が詠んだ歌を思い出して……好きなんだ」
「小泉さんってロマンチストなのね」
「意外かな」
「ううん。素敵だと思う」
真っ向から褒められる事に慣れていない私はつい視線を逸らしてしまった。「ありがとう」とぎこちなく礼を言うと、五十嵐さんははにかんだ笑みを浮かべながら「ちょっと……いや、かなりびっくりしたけど」と答えたのだった。
「そういえばさ。今日はめずらしく髪を下ろしてるじゃん。どうしたの?」
いつもはおさげなのに、と私は尋ねた。
「はい。さっき友達に言われて……いつも同じ髪だとそのうち禿げるわよって。変、でしょうか」
五十嵐さんは心配そうに何度も髪を撫で付けた。
冗談といえども、禿げを予言され傷ついたらしい。私は変じゃないよ、とすかさずフォローをした。
「綺麗だ。とても」
勇気づけるために言ったつもりが、彼女はそのまま俯いてしまった。
繊細な乙女心を傷つけるのは容易くとも癒すのは難しい。
後ろの席に座っていたさゆりがひょっこり顔を出した。
「んもうっ。蛍ちゃんのわからず屋! 肝心なところで鈍いんだから。見ててやきもきするんですけどっ」
一部始終見られていたらしい。そりゃあそうだ。あれだけ椅子をガタガタいわせておいて気付かない方がおかしい。
「ご、ごめん。どんな言葉をかければいいのか、わからなくって」
さゆりは「そうじゃない」と頭を振った。そうじゃないってどういうことなのだろう。私は首を傾げた。
「まあいいわ。それはそうと五十嵐さん。蛍ちゃんに用があったんでしょ。渡さなくていいの?」
さゆりが催促すると、五十嵐さんはそうでした、と言ってぱっと顔を上げ、傘を差し出してきた。私の折り畳み傘だ。随分と見慣れているはずなのに、小動物のように大人しく彼女の手のひらに収まっているものだから、全く別物のように思えてきてしまう。
「昨日は助かりました。ありがとう」
「どういたしまして」私はしっかりと傘を受け取り、「こいつも役に立ててうれしいってさ」と冗談めかしく笑ってみせた。
「それと、もしよかったらこれも受け取ってほしいの」
五十嵐さんが恥じらいながらも、ずいっと袋を手渡してきた。なんだろうと思い私は中身を取り出してみる。
「……ブックカバー?」
表面は薄いベージュ。控え目にレースがついており、裏地はピンクの水玉模様になっている。ぱっと見シンプルだがとても凝っている。ちゃっかり黒猫の刺繍も入っていてキュートだ。
「すっごくかわいい! 本当にもらっていいの?」
「家にあった余り物の布で作ったから……」
「えっ、これ手作りなの!?」
私は素っ頓狂な声を上げた。すると五十嵐さんは、
「昔からちまちましたものを作るのが好きで。手芸とか、けっこう得意なんですよ」
と誇らしげに答えたのだった。
「すごいな」
「すごいねえ」
「すげー」
私たちは口を揃えて彼女を称賛した。
「おい。何故いる」
「あ。ばれた?」
佑香だ。舌をぺろっと出して茶目っ気をアピールしているが、可愛らしくもなんともない。むしろ小憎たらしく感じる。そして、花粉症なのか鼻をぐずぐずさせていた。
「ばれた? じゃねえよ。さっさと山へお帰り」
「ひっどいやつだなー。あたしんちより小泉んちのほうが断然山じゃんか。遊びに行った帰りにキツネ見たしー」
「蛇もいたよね」
さゆりがさらに付け加えた。
「みなまで言うな」
あとトラウマを抉るのは止めていただきたい。
「それはさておき、面白いことになってるんじゃないかと思ってさぁ」
にしし、と佑香が悪どい笑みを浮かべる。
「面白いかどうかはともかく。かくかくしかじかなのよ」
さゆりは声を潜めて言う。佑香はふむふむ、と相討ちを打った。
「これこれうまうま。おぉ、なんてこった! 小泉は罪深いやつよのぉ。今日から光源氏と呼ぼうではないか」
「蛍ちゃん、恐ろしい子……」
「あーもう、二人しておちょくりやがって。悪ノリするの禁止な。あと佑香。光源氏ってなんだよ。絶対わかってないだろ」
私で遊ぶのも大概にしろよと言外に滲ませてみたものの、二人はにやにやと邪な笑顔を湛えるだけだった。怖気つくようなタマではないのは重々承知していたが、如何せんこの有様である。
暖簾に腕押し。柳に風。要するに何を言っても無駄なのだ。こちらとしては非常にやるせない。
「それくらいわかるよぉ。光源氏ってさ、重度のスケコマシでしょ。小泉にぴったりだと思わない?」
「思わねえよ。誰がスケコマシだ」
さしづめおまえは末摘花だな、と言って私は佑香の鼻をつまんだ。
痛い、とくぐもった声で彼女は抗議するけれど、やめてやるつもりはこれっぽっちもない。彼女の紅くなった鼻を見て、我ながら言い得て妙だと思った。
末摘花。それは、生涯光源氏に関わり続けた女性の名である。




