第9話
先ほど起動した最初のトラップが、迷宮の入り口付近で静かに牙を剥き始めたのを、俺はメインモニター越しに確認していた。
「マスター、第一階層の防衛機構、正常に作動いたしました」
シズクの淡々とした、しかしどこか弾むような声がコントロールルームに響く。
俺は深く息を吐き出し、空間モニターに映し出される討伐隊の姿を静かに見下ろす。
画面の中では、豪奢な装飾品を身につけたバートンが、苛立ちに任せてFランク探索者たちの背中を蹴り飛ばす。
「さっさと歩け、このゴミ共! 貴様らの借金を帳消しにしてやるというのだ、命を懸けて道を開け!」
傲慢で見下したような口調。他者の命を何とも思わないその態度に、俺は静かな怒りを覚える。
彼らを見ると、かつての自分を思い出さずにはいられない。
万年Fランク。効率が悪いと嘲笑されながらも、俺はこの初心者ダンジョンに十年通い続けた。稼ぎは少なかったが、力のない魔物たちと過ごす平穏な日常を何よりも大切にしてきた。自分のペースで探索し、迷宮のひんやりとした空気を味わう。それが俺の譲れない信念だった。
だが、ギルドは採算が取れないという理由だけで、俺の居場所の完全閉鎖とコア破壊を決定したのだ。
閉鎖作業の朝、最後の別れを告げるために最下層を訪れた俺は、辿々しい文字の張り紙を見つけた。そこにいたのは、寿命で消えかけのスライムのダンジョンマスターだった。彼は、十年間迷宮を愛してくれた俺に感謝し、コアと全権限を託して静かに消滅した。
コアを継承した瞬間、俺の十年間の地道な行動は莫大なダンジョンポイントに換算され、隠しステータスは限界突破を果たした。俺はその覚醒した力とマスターとしての力を使って、最初の防衛戦では、コア破壊にやってきたギルドの討伐隊を罠と進化した魔物で無傷のまま追い返したのだ。
この場所は、最弱のマスターから託された大切な贈り物だ。誰にも壊させるわけにはいかない。
「シズク、侵入者たちの現在位置は?」
「現在、第二区画へ進行中です。苔のネットワークが彼らの動きを完全に捕捉しています」
淡い光を放つシズクが、ふわりと宙に浮きながら報告する。
モニターには、バートン率いる第二次討伐隊の様子が鮮明に映し出される。バートンの背後には、借金を抱え、強制的に参加させられたFランク探索者たちが怯えた顔で続く。
その中には、見覚えのある顔もあった。使い込まれた軽装備を身につけた、いつもおどおどしている若手シーフ。カイだ。
「あいつも巻き込まれたのか……」
カイは臆病だが、根は善良な青年だ。権力に逆らえず流されやすい性格が災いして、バートンの捨て駒にされたのだろう。
「マスター、彼らは間もなく『おもてなしトラップ』のエリアに到達します」
「ああ。殺傷力はないが、精神をゴリゴリ削る仕様だ。カイたちには悪いが、少しだけ我慢してもらうしかないな」
◆ーーーー◆
薄暗い通路を、討伐隊は慎重に進む。
「ひっ……!」
先頭を歩かされていた探索者の一人が、短い悲鳴を上げて立ち止まる。
「どうした! 立ち止まるな!」
バートンが後ろから怒鳴りつける。
「い、いえ……足元が急に柔らかくなったような気がして……」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、彼らの足元の石畳がスライドし、巨大な泥沼が出現した。
「うわあっ!」
悲鳴を上げて泥にまみれる探索者たち。深さは膝下程度だが、粘り気の強い泥が足に絡みつき、身動きが取れなくなる。
「ちっ、ただの泥沼ではないか。騒ぐな、ゴミ共!」
バートンは舌打ちをしながら、泥を避けて壁際を歩こうとする。
だが、俺が仕掛けた罠はそれだけではない。
壁の隙間から、淡い紫色の幻覚胞子が音もなく噴出した。
無害な胞子だが、吸い込むと視界が歪み、恐ろしい幻影を見せる効果がある。
「ひぃぃっ! ば、化け物だ!」
「巨大なゴブリンが……こっちに来る!」
パニックに陥り、泥の中で暴れ回る探索者たち。
「落ち着け、貴様ら! ただの幻影だ!」
バートンは怒鳴るが、彼自身も想定外の事態に顔を引きつらせる。実戦経験の乏しい彼にとって、未知のトラップは恐怖以外の何物でもないはずだ。
その時、カイの足元の石畳が微かに沈み込んだ。
カチリ、という嫌な音が通路に響く。
「貴様、何を踏んだ!」
バートンが血相を変えてカイを睨みつける。
「す、すみません! 足元が急に……」
カイが青ざめた顔で弁解しようとした次の瞬間、通路の奥から大量の粘液が津波のように押し寄せてきた。
「ちっ、使えないゴミめ!」
バートンは舌打ちすると、なんとカイの胸ぐらを掴み、迫り来る粘液の波に向かって力任せに突き飛ばした。
「えっ……?」
カイがバランスを崩し、粘液の波に飲み込まれる。
同時に、彼の足元にあった落とし穴の蓋が開き、カイは真っ暗な穴の底へと落下していった。
「うわあああああっ!」
バートンはその隙に安全な後方へと飛び退き、自らの保身を図った。
「ふん、囮の役目くらいは果たしたようだな」
彼は泥まみれになりながらも、冷酷な笑みを浮かべる。
◆ーーーー◆
「ううっ……」
カイは全身の痛みで目を覚ました。
いや、痛みはない。下には分厚い衝撃吸収マットが敷かれており、怪我は一切なかった。
しかし、周囲はスライムの粘液で満たされた巨大なプールだった。
「僕は、ここで死ぬのか……」
粘液に足を取られ、身動きが取れない。暗闇の中で、カイは絶望し、死を覚悟した。
バートンに見捨てられ、こんな暗い穴の底で惨めに死んでいく。それが自分の人生の結末なのだと。
そこに、呆れたようなため息が聞こえた。
「お前、相変わらず運が悪いな」
カイが弾かれたように顔を上げると、そこには淡い光に照らされた見慣れた姿があった。
使い込まれた革鎧に、安物の鉄剣。
「あ、あんた……? どうして、ここに……」
「ここは俺の家だからな。ほら、手を出せ」
俺は粘液の海に足を踏み入れ、カイの腕を掴んで引き上げた。
「助けて……くれるんですか? 僕は、あんたの迷宮を壊しに来た敵なのに……」
カイは信じられないというように目を丸くする。
「お前がバートンに無理やり連れてこられたことくらい分かってる。それに、俺は無駄な争いは避ける主義だ。降りかかる火の粉は払うが、お前は火の粉じゃないからな」
俺は肩をすくめながら答えた。
カイは泥と粘液にまみれながら、ポロポロと涙をこぼし始めた。
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます……」
「礼はいい。とりあえず、安全な場所まで案内してやる。ついてこい」
俺はカイを連れて、迷宮の奥へと歩き出した。
「あの、バートンは……あいつは、まだ諦めていません。絶対にコアを破壊するって……」
カイが震える声で警告してくる。
「分かってる。あいつには、迷宮の主として相応の洗礼を与えてやるさ」
コントロールルームのモニターには、泥と粘液にまみれながらも、コア破壊の執念だけで奥へと進もうとするバートンの姿が映る。
「あのゴミ探索者め……絶対に、絶対にコアを破壊してやる……!」
バートンの目は血走り、異常な執念を燃やす。
だが、彼が向かっている先には、さらなる絶望が待ち受けていることを、彼はまだ知らない。
カイを無事に保護した今、遠慮はいらない。
俺はコンソールに手を伸ばし、次なるトラップの起動スイッチに指をかけた。




