第10話
カチリ、と硬い音がコントロールルームに響く。
これで準備は完了だ。
「さて、行こうか。泥だらけのままじゃ落ち着かないだろう」
俺はカイを振り返り、居住区画へと歩き出した。
カイはまだ信じられないという顔で、おずおずと俺の後ろをついてくる。
居住区画の扉を開けると、ふわりと温かい空気が流れ出してきた。
「おかえりなさいませ、マスター」
メイド服姿のリムが、静かに一礼して出迎える。
「ああ、ただいま。客人を連れてきた。温かいお茶を頼めるか」
「承知いたしました。すぐにご用意します」
リムは流れるような動作でキッチンへ向かう。
カイは目を丸くして、清潔な室内とリムの姿を交互に見比べていた。
「ここ、本当に迷宮の中なんですか……?」
「俺のマイホームだ。座ってくれ」
ふかふかのソファを勧めると、カイは緊張した面持ちで腰を下ろした。
すぐにリムが、湯気を立てる極上の紅茶と焼き菓子を運んでくる。
「どうぞ、あなたも」
「あ、ありがとうございます……」
カイは震える手でカップを受け取り、一口すする。その瞬間、彼の表情から強張りがふっと抜けた。
「美味しい……」
「無理して戦う必要はない。落ち着くまで休んでいくといい」
俺が向かいの席に座ると、カイはカップを両手で包み込みながら、ぽつりとこぼした。
「あんたは、どうしてこんなことを……? 僕たちは、ここを壊しに来た敵なのに」
俺は紅茶の香りを楽しみながら、ゆっくりと口を開いた。
「俺としては、誰かと争いたいわけじゃないんだ。ただ、前の主である小さな友人から、この迷宮を託されてね。彼が愛した穏やかな場所を、理不尽に壊されたくなかっただけさ」
組合の決定やスライムとの別れは、すでに俺の中で確固たる決意に変わっている。だからこそ、迷宮の力を使い、破壊しに来た連中を罠にかけて追い返しているのだ。誰も傷つけずに、ただ諦めさせるために。
「それに、君たちだって好きでこんな無茶な討伐に参加したわけじゃないだろう?」
俺が問いかけると、カイはハッとして俯いた。
「……はい。僕たち下級探索者は、バートンの実績作りのために集められたようなものです。逆らえば組合に居られなくなるから、従うしかなくて……」
カイは悔しそうに震える手を握りしめていた。
やがて、彼は決意を秘めた瞳で俺を真っ直ぐに見つめた。
「バートンは、僕たちをただの使い捨ての道具としか見ていませんでした。でも、あんたは違った」
カイはソファから立ち上がり、深く頭を下げた。
「僕を助けてくれて、本当にありがとうございます。もしよければ、僕をあんたの味方にしてくれませんか」
「味方?」
「はい。外の情報を集めたり、必要なものを調達したり……僕にできることなら何でもします」
その申し出は、正直ありがたかった。迷宮の中に引きこもっているだけでは、外の動きが分からない。
「分かった。よろしく頼むよ、カイ」
俺が手を差し出すと、彼は力強く握り返してきた。
◆ーーーー◆
「チィィィッ! どこだ、どこにコアがあるんだ!」
バートンは泥と粘液にまみれた体を這いずらせながら、薄暗い通路を進んでいた。
高価な装飾品は見る影もなく汚れ、息は絶え絶えだ。
「あのゴミ探索者め……私をコケにしおって。必ず見つけ出して、八つ裂きにしてやる!」
怒りと執念だけで足を動かし、ようやく開けた空間に出る。
その先には、最深部へと続くと思われる巨大な扉があった。
「見つけたぞ……! ついに!」
歓喜の声を上げ、バートンは扉へ向かって駆け出した。
だが、その足元が突然、ぬるりと滑った。
「なっ!?」
床一面に、摩擦を完全にゼロにする特殊なローションが撒かれていたのだ。
バートンは勢いよく転倒し、そのままツルツルと滑り始めた。
「うおぉぉぉっ!?」
滑っていく先には、下り坂になっている長いスロープがある。
彼は仰向けのまま、猛スピードでスロープを滑り落ちていった。
「止まれ! 止まらんかぁぁぁっ!」
いくら手足をバタつかせても、全くブレーキがかからない。
スロープの先には、底なしの泥沼が待ち構えていた。
バシャァァァッ!
「ぶべっ!?」
顔面から泥沼に突っ込み、バートンは激しくむせた。
「おのれ……こんな罠など……!」
泥まみれになりながら這い上がると、そこはなんと、先ほど滑り始めた場所のすぐ後ろだった。
空間が歪められ、無限にループする構造になっていたのだ。
「な、なんだここは……どうなっている!?」
再び扉へ向かおうとするが、またしても足が滑り、スロープを落ちて泥沼に突っ込む。
「ぎゃあぁぁぁっ!」
何度繰り返しても、扉には一歩も近づけない。
永遠に続く滑り台と泥沼のループ。
「ひぃぃっ……! もう嫌だ、助けてくれぇぇぇっ!」
ついにバートンの心が完全に折れた。
彼は扉へ向かうことを諦め、来た道を四つん這いになって逃げ帰り始めた。
「帰る……帰るぅぅぅっ! こんなふざけた場所、二度と来るかぁぁぁっ!」
プライドも権威もかなぐり捨て、無様な悲鳴を上げながら、バートンは迷宮から逃げ出していった。
◆ーーーー◆
「見事に逃げていったな」
コントロールルームのモニター越しに、バートンの惨めな敗走を見届けた俺は、ふうと息を吐いた。
隣で画面を見ていたカイも、呆れたような、それでいてスッキリしたような顔をしている。
「あれだけ威張っていたのに、最後はあんな姿になるなんて……」
「これでしばらくは、静かな生活が送れそうだ」
俺はコンソールの電源を落とし、リムが淹れ直してくれた紅茶に手を伸ばした。
カイという外部の協力者を得て、迷宮の防衛はさらに盤石なものになった。
だが、バートンがこのまま黙って引き下がるとは思えない。
彼が組合で失脚したとして、その後にどんな動きがあるのか。
「カイ、外に戻ったら、組合の動向を探ってくれないか」
「任せてください。何か怪しい動きがあれば、すぐに知らせに来ます」
カイは頼もしく頷いた。
ひとまずの平穏は守られた。
しかし、バートンの失敗が引き金となり、次にこの迷宮を狙う者が現れるかもしれない。
俺はカップの温もりを感じながら、まだ見ぬ次の波乱に思いを馳せていた。




