第6話
「リム、まずはこの広間の掃除と、居住区画の整備を手伝ってくれるか?」
「はい、ご主人様。お任せください」
リムは淡々とした丁寧語で応じると、さっそく袖を捲り上げて広間の隅へと歩き出した。彼女の足取りは軽く、家事という役割を与えられたことが心底嬉しいようだ。
シズクがふわりと俺の隣に並び、その様子を静かに見守っている。
「頼もしい味方が増えましたね、マスター」
「ああ。これで少しは、人間らしい生活ができそうだ」
冷たい岩肌に囲まれた洞窟が、少しずつ温かなマイホームへと変わっていく。
リムの加入によって、これからの迷宮生活はどう変わっていくのだろうか。胸の奥に灯った小さな期待が、これからの穏やかなスローライフの始まりを告げていた。
それからわずか数時間後。俺は目の前に広がる光景に、ただただ圧倒されていた。
「ご主人様、居住区画の清掃および寝具の設営が完了いたしました。お茶の準備も整っております」
リムがメイド服のスカートの裾を軽くつまみ、優雅にお辞儀をする。
殺風景だった岩壁は塵一つなく磨き上げられ、俺がポイントを消費して具現化した木製の家具が、ミリ単位の狂いもなく完璧な配置で並んでいる。部屋の隅には目に優しい観葉植物まで置かれ、無骨な洞窟の一部が、まるで王都の高級ホテルのような洗練された空間へと変貌していた。
部屋の中央に置かれた大きなベッドには、ふかふかのマットレスと、純白のシーツがシワ一つなくピンと張られている。さらに、丸テーブルの上には、リムが手早く作った色鮮やかな焼き菓子が並べられていた。
「すごいな……まさかここまで完璧に仕上げるとは」
「お褒めいただき、光栄です。ご主人様に快適な環境をご提供することこそ、私の至上の喜びですので」
リムは表情こそ大きく変えないが、その声には微かな誇らしさが滲んでいた。
彼女は流れるような無駄のない動作でティーセットを用意し、湯気の立つティーカップを俺の前に差し出した。
芳醇な茶葉の香りが、ひんやりとした洞窟の空気にふわりと溶けていく。
俺は椅子に腰を下ろし、リムが淹れた極上の紅茶を一口味わった。温かな液体が胃の奥に染み渡り、全身の強張りがふっと抜けていく。
「本当に、信じられない気分だ」
カップをソーサーに置き、俺は隣で微笑むシズクに視線を向けた。
万年Fランクの探索者として、俺は街のギルドでずっと嘲笑されてきた。効率が悪いバカだと後ろ指を指されながらも、この初心者ダンジョンに十年通い続けた。
俺にとっては、効率や利益よりも、弱いスライムやゴブリンたちとの無害で静かな日常が何より大切だったからだ。彼らは俺を襲うこともなく、ただそこにいるだけで心を和ませてくれた。
だが、ギルドは採算が取れないという理由だけで、この場所の完全閉鎖とコア破壊を一方的に決定した。あの通達を聞いた時の、自分の居場所を理不尽に奪われる絶望感は今でも忘れられない。
「マスター。少し、昔のことを思い出していましたか?」
シズクが俺の心を読んだように尋ねてくる。
「ああ。閉鎖作業の朝、最後の別れを告げるために最下層を訪れた時のことをな」
俺は目を細め、数日前の出来事を脳裏に蘇らせた。
最下層の重い扉に貼られていた、辿々しい文字の張り紙。
そして、その奥にいた寿命で消えかけのスライムのダンジョンマスター。
彼は、十年間この迷宮を愛してくれた俺に深く感謝し、ダンジョンコアと全権限を託して光の粒子となって消滅した。最弱のマスターからの、重く、そして温かい贈り物だった。
「あの時、コアを継承した瞬間の感覚は、一生忘れないだろうな」
俺の十年間の地道な行動が、莫大なポイントとして換算され、隠しステータスが限界突破したあの覚醒。
そして俺はマスター権限を行使し、コア破壊にやってきたバートン率いるギルドの討伐隊を、罠と進化した魔物で無傷のまま追い返した。
それが、俺にとっての最初の防衛戦だった。
「マスターが彼らを傷つけずに追い返したこと、前のマスターもきっと喜んでいるはずです」
シズクの言葉に、俺は小さく頷いた。
「無駄な争いは避ける。だが、降りかかる火の粉は容赦なく払う。それが俺のやり方だ」
俺は二杯目の紅茶をリムに注いでもらいながら、テーブルの上に迷宮の立体図を投影した。
「さて、今後の防衛方針について話し合おう。討伐隊を一度追い返したとはいえ、ギルドがこのまま引き下がるとは思えない」
「そうですね。高難度化したという噂が広まれば、さらに厄介な連中が来るかもしれません」
シズクが立体図の一部を指差す。
「俺たちの目的は、誰にも邪魔されない安全な場所でスローライフを送ることだ。侵入者を殺す必要はないが、二度と来たくないと思わせる必要がある」
俺は立体図の通路に、いくつかのマーカーを配置した。
「外部からの侵入者を傷つけずに追い返すための、理不尽だが安全な罠。これを量産する」
「具体的には、どのようなものを?」
リムが首を傾げる。
「例えば、落とし穴だ。ただし、底にはお前がベッドに敷いたような極上のふかふかクッションを敷き詰める」
「……クッション、ですか?」
「ああ。落ちた瞬間は死の恐怖を味わうが、着地は無傷。そして、そのクッションの部屋からは、迷宮の入り口まで強制的に転移させられる」
シズクがくすりと笑った。
「苦労して進んだ道のりを一瞬でゼロにされるわけですね。それは確かに、精神的なダメージが大きそうです」
「他にも、通路の途中に『絶対に解けないが、間違えても爆発しない知恵の輪』を置く。解かないと扉が開かない仕組みにして、数時間悩ませた挙句、諦めて帰らせる」
「物理的なダメージは皆無ですが、探索者としてのプライドはずたずたになりますね」
俺たちは次々と、悪辣で安全な罠のアイデアを出し合った。
リムも時折、「通路に強烈な石鹸の香りを充満させ、くしゃみが止まらなくなる罠はいかがでしょう」と真顔で提案してくる。
温かな紅茶と、他愛のない会話。
俺がずっと守りたかった日常が、確かにここにあった。
◆ーーーー◆
「……信じられない。あのバートン査定官の討伐隊が、全滅したなんて」
冒険者ギルドの受付カウンターで、私、エリーゼは小声で呟いた。
昼下がりのギルド内は、異様な熱気に包まれていた。探索者たちがテーブルを囲み、ひそひそと声を潜めて噂話に興じている。
『おい、聞いたか? あの迷宮に向かった討伐隊が、命からがら逃げ帰ってきたらしいぞ』
『ああ。怪我人は一人もいなかったらしいが、全員が幽鬼みたいな顔をしてたって話だ』
『あの場所に、一体何が起きたんだ?』
私は討伐隊の帰還報告書に『任務失敗』の印を押し、誰にも気づかれないよう小さく息を吐き出した。
討伐隊が失敗したということは、ダンジョンコアは破壊されなかったということだ。
そして何より、あの迷宮にいたレオンさんが無事である可能性が高い。
周囲が彼を馬鹿にする中、私は彼の地道な努力と、迷宮に対する真摯な態度をずっと見てきた。いつも泥だらけになりながらも、決して腐ることなく毎日迷宮へ通う彼の背中を、私は密かに尊敬していたのだ。
閉鎖の通達を彼に伝えた時の、あの悲しそうな顔がずっと心に引っかかっていた。
「レオンさん……ご無事で本当によかった」
私は赤いフレームの眼鏡を指先で押し上げ、手元の書類を片付けようとした。
だが、事態はそう簡単に終わるものではなかった。
ギルドの奥にある応接室から、ドスンという鈍い音が響いた。
ビクッと肩を跳ねさせ、私はそちらへ視線を向ける。
少し開いたドアの隙間から、バートン査定官の姿が見えた。彼は高価な机を拳で叩き割り、血走った目で床を睨みつけている。
「ふざけるな……! この私が、あんな得体の知れない化け物にコケにされるなど……!」
彼の声には、恐怖を塗り潰そうとするような激しい怒りが混じっていた。
バートン査定官はプライドが高く、自分の失敗を絶対に認めない人物だ。無傷で追い返されたという屈辱は、彼の自尊心を粉々に打ち砕いたに違いない。
「あの迷宮め……ただで済むと思うなよ。必ず、必ず私の手で跡形もなく消し去ってやる……!」
ギリギリと歯を軋ませる音が、ここまで聞こえてきそうだった。
彼は懐から、禍々しい黒い光を放つ通信魔道具を取り出し、どこかへ連絡を取り始めた。
「……はい、私です。例の件ですが、予定を変更します。本部の『特務部隊』を動かしてください。ええ、手段は問いません」
その言葉に、私は背筋が凍るのを感じた。
特務部隊。それはギルドが裏の仕事で使う、非情な実力者たちの集まりだ。
バートン査定官は、なりふり構わずあの迷宮を、そしてレオンさんを潰しにかかるつもりなのだ。
「レオンさん……逃げて……」
私は誰にも聞こえない声で、ただ祈ることしかできなかった。
平穏を取り戻したはずの迷宮に、再び理不尽な悪意が迫りつつある。
バートンの次なる手が、すぐそこまで迫っていた。




