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第5話

静寂を取り戻したはずの洞窟の奥深くで、何かが静かに胎動を始めているような、得体の知れない冷気が足元を這い上がってきた。


それは決して恐怖を煽るものではない。俺の十年分の滞在時間が魔力還元され、莫大なダンジョンポイントを抱え込んだ迷宮そのものが、主の次の指示を待ちわびて歓喜に震えている余波だった。


討伐隊を追い返した翌日。


俺は最下層の広間で、宙に浮かぶシズクと向き合っていた。半透明の青白い光を帯びた彼女は、迷宮のコアと同じ色の瞳で俺をじっと見つめている。


「マスター。外敵の再侵入に備え、防衛機構のさらなる強化を推奨します。各層に致死性の罠を配置し、侵入者を確実に排除するべきかと」


淡々とした丁寧語で、シズクは極めて物騒な提案をしてきた。


「いや、それはやめておこう。俺の願いは、誰にも邪魔されない安全な場所で、のんびり暮らすことだ。殺伐とした要塞にはしたくない」


俺は苦笑しながら首を振った。


万年Fランク探索者だった俺は、効率が悪いバカだと周囲から嘲笑されながらも、この緑に覆われた初心者向けダンジョンに十年通い続けていた。効率や利益よりも、弱い魔物たちとの無害で静かな日常を大切にする信念があったからだ。


しかし、ギルドは採算が取れないという理由だけで、ダンジョンの完全閉鎖とコア破壊を決定した。俺の居場所は、理不尽な権力によって一方的に奪われそうになったのだ。


だからこそ、俺はここを誰もが安らげる理想の空間にしたい。


「居住性を最優先にして、大改築を行おう。凶悪な罠より、ふかふかのベッドや温かい食事ができる環境が先だ」


俺の言葉に、シズクは小さく息を吐き、呆れたように微笑んだ。


「あなたらしいですね。外敵への警戒よりも居住性を重んじるとは。ですが、マスターの命令と意思を何よりも尊重するのが私の役目です。まずは居住区画の整備から始めましょう」


俺は広間の隅に転がっていた、大人が三人掛かりでも動かせないような巨大な岩に手をかけた。居住区画を作るには、少し邪魔な位置にある。


片手で軽く力を込めると、岩はあっさりと持ち上がった。そのまま数メートル先の壁際へと放り投げる。ズシン、と重い音が響き、地面が微かに揺れた。


長年使い込んだ錆びた鉄剣を振るううちに鍛えられたのか、俺の基礎ステータスは自分でも呆れるほど跳ね上がっているらしい。


「素晴らしい腕力です。ですが、内装の変更もポイントを消費すれば一瞬で行えますよ」


「ああ、そうだったな。つい自分の手で動かしたくなる」


壁を覆う緑の植物——迷宮の防衛機構であり索敵ネットワークを担う特殊な魔法生物の群体——が、微かに明滅して迷宮内の安全を伝えてきていた。どこにも敵の気配はない。


「まずは、身の回りの世話を任せる存在が必要ですね。私には実体がなく、あなたに直接触れることができませんから」


シズクが少しだけもどかしそうに視線を伏せた。


彼女の視線の先、俺の足元には、昔からこの迷宮に生息していた一匹の弱いスライムがぷるぷると震えていた。


それを見て、俺の脳裏に昨日の朝の記憶が蘇る。


閉鎖作業の朝、最後の別れを告げるため最下層を訪れた俺は、辿々しい文字の張り紙を見つけた。そこにいたのは、寿命で消えかけのスライムのダンジョンマスターだった。


彼は、十年間迷宮を愛してくれた俺に感謝し、コアと全権限を託して消滅した。


あの最弱のマスターからの贈り物が、今の俺のすべてだ。彼が愛したこの迷宮と、そこに住む弱い魔物たちを、俺はこれからも守り抜きたい。


「よし。お前にポイントを与えてみよう」


俺はしゃがみ込み、その震える体を両手でそっと掬い上げた。


マスター権限を行使し、莫大なポイントを注ぎ込む。


直後、スライムの体が眩い光に包まれた。光の粒子が渦を巻き、形を急速に変えていく。魔力の奔流が広間を吹き抜け、俺の髪を大きく揺らした。


やがて光が収まると、そこには半透明の青い髪を持つ、小柄な少女が立っていた。


身に纏っているのは、汚れ一つない清潔なメイド服だ。


「……ご主人様」


少女はゆっくりと目を開き、俺を見上げて口を開いた。口数は少なそうだが、その声には確かな知性が宿っている。


「私が、あなたにお仕えするメイド長です。お名前を、いただけますでしょうか」


「俺はレオンだ。お前の名前は……そうだな、リムというのはどうだ?」


「リム。……素晴らしいお名前です。私に命と役割を与えていただき、感謝いたします」


リムは深く頭を下げた。その所作には、絶対の忠誠と至上の喜びが滲み出ている。


俺は立ち上がり、新しく家族となった彼女の頭を軽く撫でた。


コアを継承した瞬間、俺の十年間の地道な行動が莫大なポイントに換算され、隠しステータスが限界突破した。そしてマスター権限を行使し、コア破壊にやってきたギルドの討伐隊を、罠と進化した魔物で無傷のまま追い返した。


あの覚醒と最初の防衛戦を経て、俺はついに自分の居場所を守り抜いたのだ。


「リム、まずはこの広間の掃除と、居住区画の整備を手伝ってくれるか?」


「はい、ご主人様。お任せください」


リムは淡々とした丁寧語で応じると、さっそく袖を捲り上げて広間の隅へと歩き出した。彼女の足取りは軽く、家事という役割を与えられたことが心底嬉しいようだ。


シズクがふわりと俺の隣に並び、その様子を静かに見守っている。


「頼もしい味方が増えましたね、マスター」


「ああ。これで少しは、人間らしい生活ができそうだ」


冷たい岩肌に囲まれた洞窟が、少しずつ温かなマイホームへと変わっていく。


リムの加入によって、これからの迷宮生活はどう変わっていくのだろうか。胸の奥に灯った小さな期待が、これからの穏やかなスローライフの始まりを告げていた。


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