第21話
よろめいたアルトは、信じられないものを見るような目で俺を見据えていた。
その足元を、淡く光る緑の絨毯が静かに照らし出している。壁一面に広がる苔の群落は、張り巡らされた毛細血管のように脈打ち、室内の魔力を穏やかに循環させていた。
「……ふざけるな。こんな安物のなまくらで、聖剣を受け止めるなんてあり得ない!」
アルトの全身から黄金の魔力が噴き上がり、踏みしめた敷石が砕け散った。
国最強の勇者と呼ばれるだけのことはある。放たれるプレッシャーは凄まじく、普通の探索者なら気圧されて足がすくむはずだ。だが、俺にとっては十年間毎日この洞窟で向き合ってきた、湿った重い空気のほうがよほど肌に馴染んでいた。
「奥義――『天閃裂空斬』ッ!」
眩い光の奔流が、最深部の広間を白く染め上げた。直線上に存在するすべてを両断するような、凄まじい刺突だ。
しかし、俺にはそのすべてが酷くゆっくりに見えていた。
俺は息を吸い、ただ右足を半歩引き、鉄剣の腹をわずかに傾けた。
澄んだ金属音が鳴り響く。神速の光刃は、俺の剣先に触れた瞬間、つるりと斜め上へと受け流された。天井の岩肌が鋭く削り取られ、破片がパラパラと落ちてくる。
「な……受け流した……!?」
「重心が前のめりすぎる。踏み込みが強すぎて、次の動きへの繋ぎが遅くなってるぞ」
「黙れえぇぇッ!」
アルトは激昂し、縦横無尽に聖剣を振るった。薙ぎ払い、突き、袈裟斬り、跳躍からの叩きつけ。常人なら肉眼で追うことすら不可能な連撃の嵐が吹き荒れる。
だが、俺の動きは最小限だった。首をわずかに傾けて切っ先をかわし、刃の腹で軌道を逸らし、足捌きひとつで間合いの外へ外す。長年、薄暗い洞窟の中で足場を確かめながら、重い荷物を背負い、硬い岩を砕いて歩き続けた日々が、勝手に体を最適解へと導いていた。
かつてギルドの誰もが効率が悪いと切り捨てた時間。だが、十年間絶え間なく迷宮に魔力を供給し、自らもまたその環境に順応し続けた結果、俺の肉体はいつの間にか人外の領域へと達していたらしい。
「なぜだ……なぜ当たらん! 俺は選ばれた勇者だぞ! 国を救うための剣が、なぜ届かない!」
アルトの息が乱れ、額に大粒の汗が浮かぶ。苛立ちと焦燥が、その鋭かった太刀筋をさらに荒削りにしていた。
「焦るな。型にとらわれすぎて、相手の動きを見ていない」
俺は彼の渾身の横薙ぎを、鉄剣の鍔元で正面から受け止めた。衝撃でアルトの腕が大きく跳ね上がる。
無防備になったその胸元へ、俺は剣の柄頭を軽く当てた。そして、軽くトンと押し出す。
それだけの動作だった。
「ぐあっ!?」
アルトの体はまるで巨大な岩塊に激突したかのように宙を舞い、背後の壁際まで吹き飛んだ。手から零れ落ちた聖剣が、甲高い音を立てて床を転がっていく。
壁に背中を打ちつけたアルトは、そのまま力なく膝をついた。
広間に、静寂が戻る。
「アルト様……!」
遠巻きに見ていた後方の仲間たちが悲鳴を上げたが、彼らは一歩も前に出られずにいた。床に根を張る苔が放つ静かな圧力と、俺との絶望的な力量差を肌で感じ取っているからだ。
俺は鉄剣を腰の鞘へと納めた。使い古した革が擦れる乾いた音が響く。
「マスター、お疲れ様でした。お茶の温度がちょうど飲み頃になっております」
背後から、シズクの透き通った声が聞こえた。彼女はふわりと宙に浮かんだまま、湯気の立つカップを恭しく掲げている。
俺は振り返り、ソファへと戻って腰を下ろした。温かいハーブティーを一口含むと、心地よい香りが鼻腔をくすぐる。
膝をついたままのアルトは、信じられないといった様子で震えていた。命乞いをする様子はない。ただ、己の信じてきた世界のすべてが足元から崩れ去ったような、深い虚脱感に囚われていた。
「……殺せよ」
絞り出すような声が、アルトの口から漏れた。
「俺の負けだ。国の最強戦力である俺が、こんな……得体の知れない魔王の手先ごときに敗れたんだ。生かしておく理由もないだろう」
その言葉を聞いて、俺は思わず眉をひそめた。
「魔王の手先って、誰のことだ?」
「お前たちのことだ! 国を脅かし、邪悪な魔物を育てて侵略を企む迷宮の支配者……そう聞かされて討伐に来たんだ!」
「侵略なんてするわけないだろ。めんどくさい」
あっさりと答えると、アルトはポカンと口を開けた。
「は……? めんどくさい……?」
「ああ。ここはただの俺の家だ。十年間通い詰めて、ようやく手に入れた落ち着く場所なんだよ。誰にも邪魔されず、のんびり暮らしたいだけだ」
俺は広間を見渡した。手触りの良い毛織物の絨毯、磨き抜かれた木製テーブル、隅で気持ちよさそうに丸まって眠る魔物たち。どこをどう見ても、血生臭い侵略の拠点には見えないはずだ。
アルトは呆然と周囲を見回し、やがて自分の泥だらけの手を見つめた。
「家……? これが……? じゃあ、国が言っていた『急激に変貌した凶悪迷宮の脅威』というのは……」
「勝手に押し入ってきて、俺たちの暮らしを壊そうとしたのはそっちだ。火の粉を払っただけで、こっちから外に出て暴れた覚えは一度もない」
俺が淡々と告げると、アルトの表情が激しく揺れ動いた。
国から教え込まれた正義、与えられた使命、そして敵の邪悪さ。そのすべてが、目の前にある穏やかで快適な生活空間と、圧倒的な実力を持ちながら殺意すら見せない俺の態度によって、音を立てて砕け散っていく。
彼は床に突いた拳をぎゅっと握りしめた。己の無知と、国の都合のいいプロパガンダに踊らされていた事実への悔しさが、その背中から滲み出ていた。
「俺は……俺は今まで、何を信じて剣を振るってきたんだ……」
ぽつりとこぼしたその声には、折れた誇りと純粋な懊悩が混ざり合っていた。
だが、すぐにその瞳から濁りが消えた。彼はふらつきながらも顔を上げ、じっと俺を見つめてきた。
その目には、敗北への絶望ではなく、別の感情が宿り始めているように見えた。純粋すぎるほど真っ直ぐな、熱を帯びた光だ。
「お前の……いや、あなたのその強さは何なんだ。無駄が一切なくて、まるで自然そのものと戦っているみたいだった。どうすれば、そんな風になれるんだ……?」
「どうすればって……毎日コツコツ同じことを繰り返しただけだ。特別な修行なんてしてない」
俺が素直に答えると、アルトは目を見張り、ごくりと喉を鳴らした。
次の瞬間、彼は床に両手を突き、勢いよく頭を下げた。
「頼む! 俺を弟子にしてくれ、師匠!」
「……は?」
最深部の広間に、俺の気の抜けた声が響き渡った。シズクが隣で静かに首を傾げ、遠くで控えていた勇者パーティの仲間たちが一斉に顎を外さんばかりに固まっている。
討伐に来たはずの勇者が、目を輝かせながら俺を見上げている光景は、どう考えても頭痛の種でしかなかった。




