第22話
床に額を擦りつけたまま、アルトは微動だにしなかった。
金髪を床に散らし、白銀の鎧をきしませながら、ただひたすらに俺の返答を待っている。背後で立ち尽くす彼の仲間たち――聖女や魔導士らしき連中は、信じられないものを見る目で自らのリーダーを見つめていた。
「……おい、いつまでそうしてるつもりだ」
「師匠が首を縦に振ってくれるまでです! 俺はここで、本物の強さを学びたい!」
顔を上げたアルトの目は、驚くほど澄んでいた。邪気も計算も何もない。純粋すぎて胸焼けがしそうなほどの真っ直ぐさだ。
「勘違いするな。俺は誰かに剣を教える気なんてないし、そもそも師匠と呼ばれる筋合いもない。それに、お前は国の命令でここを潰しに来た討伐部隊の筆頭だろうが」
「そんな命令、もうどうでもいいです! 国の上層部は、この場所が危険な魔境で、邪悪な怪物が世界を脅かそうとしていると俺に吹き込みました。だが、実際に来てみればどうだ。ここはただ穏やかで、師匠が丹精込めて整えた場所にすぎない。騙されていたのは俺の方だ」
拳を固く握りしめ、アルトは悔しげに吐き捨てた。
頭痛が痛むのをこらえながら、俺は額に手を当てた。国最強と名高い勇者が、迷宮の最深部に居座って弟子入りを志願している。客観的に見て異常極まりない状況だ。
だが、ため息を吐き出しながら考えを巡らせるうちに、ふと一つの妙案が浮かんできた。
この真っ直ぐすぎる男の立場を上手く使えば、これまで散々悩まされてきた外部からの厄介事を、根本から断ち切れるのではないか。
「アルト。お前、国に戻って報告する義務があるよな」
「……はい。ですが、俺はもう国の言いなりになって師匠を討つ気はありません」
「討たなくていい。むしろ、お前のその勇者としての肩書きを貸せ。面倒な後始末に協力してくれるなら、ここに立ち寄ることくらいは許可してやる」
アルトの表情がぱっと輝いた。
「本当ですか、師匠! どんなことでも命じてください!」
現金なやつだなと思いつつ、俺は手元を操作し、居住区へ続く転移陣を起動させた。
改築した居住区の応接室には、湯気の立つ茶が四つ並んでいた。
ふかふかのソファに腰掛けるアルトの正面には、呼び出しに応じてやってきたカイとセリアが並んで座っている。カイは落ち着かない様子で視線を泳がせ、何度も膝の上で指を組み替えていた。
「え、ええと……この方が、あの有名な勇者様……なんですよね? どうして僕たちと一緒にお茶を飲んでるんですか、レオンさん……?」
「話せば長くなるが、要するに話が通じるようになった。これ以上の戦闘は起きない」
俺が短く告げると、セリアが涼しげな瞳を細め、手元の手帳を開いた。
「状況は把握しました。討伐軍の本隊に続き、切り札である勇者パーティまでもが無力化されたとなれば、王都の動揺は計り知れません。問題は、あの傲慢な貴族たちが素直に引き下がるかどうかですが」
「そこでだ」
俺は木製のテーブルに両肘をつき、三人の顔を見渡した。
「いつまでも小競り合いを続けるのはごめんだ。国と正式に『不可侵条約』を結びたい。お互いに手を出さない、完全な境界線を引く」
部屋の空気がわずかに張り詰めた。
国家と迷宮の主が対等に条約を結ぶなど、前例がない。普通なら狂気の沙汰と笑われる話だ。だが、今のこの戦力差と状況なら、机上の空論ではないはずだった。
「不可侵条約、ですか……」
セリアが顎に指を当て、冷徹な商人としての思考を巡らせる。
「悪くない一手です。国が動く理由は主に二つ。迷宮がもたらす利権への欲と、御しきれない脅威への恐怖。利権に関しては、私が商人ギルドの有力者たちに根回しをしましょう。『あの迷宮に手を出しても莫大な軍事費が溶けるだけで一切の利益が出ない』と吹き込み、派兵を財政面から締め上げます」
「助かる。商人が金を渋れば、国もそう簡単には動けない」
「そして、もう一つの恐怖に関してですが――」
セリアの視線が、隣のアルトへと向けられた。
アルトは力強く頷き、自身の胸当てを叩いた。
「俺の出番だな。上層部には、ありのままを伝えてやる。『迷宮の主は神話級の怪物であり、国の全戦力を動員しても勝ち目はない。しかし、領域を侵さず敬意を払えば、向こうから打って出ることは絶対にない』とな」
「……それ、大袈裟すぎないか?」
「大袈裟なものですか! 俺の全力を片手で受け流した師匠の強さは、どう表現したって足りないくらいです!」
興奮気味に身を乗り出すアルトに、カイが小さく身を縮めながらも口を開いた。
「で、でも、勇者様がそこまで言うなら、王都の騎士団も諦めざるを得ないと思います。僕の方でも、冒険者ギルドの裏情報網に『あそこは絶対不可侵の禁域になった』って噂を流しておきますね。末端の探索者が迷い込まないように」
「頼んだぞ、カイ。無用な死人が出るのは避けたい」
それぞれの役割が決まり、作戦の輪郭がはっきりと組み上がっていく。
十年間、ただ日課のように通い続けていた場所を、誰の手にも渡さず守り抜く。そのための最後の仕上げが始まろうとしていた。
数日後、王都の評議会は大混乱に陥っていた。
報告を持ち帰ったアルトの証言は、上層部の重鎮たちを底知れぬ恐怖へと突き落としたらしい。国が誇る最強の勇者が、傷一つつけられずに完全敗北を認めたのだ。その上、従軍していた聖女や魔法使いまでもが「あれは天災と同じで、人が挑んでいい相手ではない」と証言を揃えた。
さらにセリアの手腕が光った。
迷宮討伐に多額の出資をしていた大商人たちが、一斉に資金の引き上げを宣言したのだ。これ以上の派兵は国家財政を破綻させると財務官たちが騒ぎ立て、強硬派の貴族たちも完全に孤立した。
勝てる見込みのない戦争に、これ以上の国力を注ぎ込む愚か者はいなかった。
こうして、国の使節団から不可侵条約の草案が届くこととなった。
「……内容は、こちらの要求通りだな」
居住区の執務机で、俺はセリアが持ち込んできた羊皮紙に目を通していた。
条約の骨子は大まかに三点。
一、国はこの迷宮を独立自治領として認め、軍および探索者の無断立ち入りを永久に禁じること。
二、迷宮側は領外への侵略行為を行わず、周辺地域の平穏を維持すること。
三、違反があった場合、条約は即座に破棄され、迷宮側による無制限の自衛行動が容認されること。
完全な勝ち条件だ。国側にとっては実質的な降伏文書に等しいが、メンツを保つために「平和協定」という名目がつけられている。
「上出来です、レオン様。王宮の使者は、あなたの署名が入ったこの書類を震えながら待っていますよ」
セリアが満足そうに口元を緩めた。
「ご苦労だったな、セリア。お前の根回しがなければ、ここまでスムーズにはいかなかった」
「いえ、すべてはあなたの圧倒的な実力があってこそです。商人は勝ち馬にしか乗りませんから」
淡々と答える彼女の隣で、部屋の隅で素振りをしていたアルトが汗を拭いながら歩み寄ってきた。
「これで王都の連中も手を出せなくなりますね! さあ師匠、次は俺の稽古をつけてください!」
「ああ。ひとまず、一番面倒な壁は越えられそうだ」
俺は羽ペンを手に取り、羊皮紙の末尾に自分の名前をさらりと書き込んだ。
インクが乾いていくのを見つめながら、長く重かった肩の荷が、わずかに軽くなるのを覚える。
見捨てられた場所だった。効率が悪いと切り捨てられ、消え去るはずだったこの空間を、ようやく誰の干渉も受けない俺たちの居場所として確立できる。
もちろん、これで全てが終わったわけではない。条約が正式に締結され、境界が定まった後、この場所をどのように作り替え、どんな暮らしを紡いでいくか。課題は山ほどある。
だが、胸の内に広がるのは焦りではなく、確かな手応えだった。
「さてと……条約が結ばれたら、まずは中庭の畑を広げるか。それとも、新しい温泉でも掘ってみるか」
俺の独り言に、アルトが目を輝かせ、セリアがやれやれと肩をすくめた。




