第20話
最深部の防衛ラインが、ついに突破された。
通路の壁面を覆う淡い緑色の植物群が、微かな光の明滅を繰り返している。ひんやりとした空気が頬を撫で、水滴が落ちる音が遠くで響く。
この植物はただの自生種ではない。迷宮全体に張り巡らされた索敵ネットワークであり、侵入者の動向を正確に伝えてくれる防衛機構の一部だ。
その光の波を横目で見ながら、俺は居住区の入り口へと続く石畳をゆっくりと歩く。使い込まれた革鎧が、動くたびに微かな衣擦れの音を立てる。
ここ数日、迷宮の異常事態を嗅ぎつけた連中が次々と押し寄せてきた。
利益を独占しようと企む中堅クランの荒くれ者たちや、事態を重く見た国が派遣した正規の討伐軍。彼らは一様に、効率よく富と名声を手に入れることだけを考えてきた。
彼らにとって、この場所はただの資源の採掘場であり、踏み荒らして奪い尽くすための標的でしかない。万年Fランクと呼ばれ、効率が悪いと見下されてきた俺の過去と同じように、彼らはこの迷宮の価値を表面的な数字でしか測ろうとしなかった。
一方の俺は、十年分の滞在時間が魔力還元されて蓄積した莫大なポイントを使い、外部からの侵入を阻むトラップを次々と設置していく。それと同時に、内部を自分と魔物たちが快適に暮らせる理想の住処へと改築する作業も進める。
広々とした大浴場を作り、ふかふかのベッドを置き、美味しい食事ができるダイニングを整える。それは、俺にとって何よりも大切な「居場所」を作るための作業だった。
欲に駆られて押し寄せる侵略者たちに対し、俺は容赦なく理不尽な物理トラップを起動し、進化した魔物たちを配置して迎撃した。
落とし穴、動く壁、重力反転ギミック。
効率と利益だけを追求する彼らは、俺が地道な努力と愛着を持って築き上げた防衛網の前に、あっけなく敗れ去っていった。
誰一人として、この最深部まで辿り着くことはできなかった。
だが、度重なる失敗に業を煮やした国は、ついに最強の刺客を送り込んできた。
国最強と謳われる勇者パーティ。
そのリーダーであるアルトは、並み居る罠を強引な力技で突破し、ついに俺の待つ居住区の目前まで迫る。
静かな日常を守りたい俺と、迷宮の力を奪おうとする国家権力との間で、避けては通れない最大の対立が目の前に迫る。
居住区の入り口を塞ぐ、重厚な両開きの扉。
俺がその前に到着し、小さく息を吐き出した直後だった。
凄まじい轟音と共に、分厚い扉が内側へと吹き飛んだ。
砕け散った木片と金具が宙を舞い、もうもうと立ち込める土煙の中から、一つの影が飛び込んでくる。
「覚悟しろ、迷宮の主……!」
白銀の鎧を泥だらけにし、肩で息をしながらも、その瞳には強烈な闘志を宿した少年。勇者アルトだ。
彼は聖剣を上段に構え、部屋の中央へと鋭く踏み込んだ。
だが、次の瞬間。
アルトの動きが、ピタリと止まった。
「……え?」
彼が間の抜けた声を漏らすのも無理はない。
おどろおどろしい魔王の間を想定して力んでいたアルトは、剣の切っ先をだらりと下げた。
そこは、リムが完璧に整えた優雅な観戦用ラウンジだった。
床にはふかふかの絨毯が敷かれ、壁際には手入れの行き届いた観葉植物が並んでいる。中央に置かれたアンティーク調のテーブルには、淹れたての紅茶から立ち昇る湯気が、ほのかな花の香りを漂わせる。
部屋の隅では、半透明の青い髪を持つ小柄な少女——リムが、チリトリとほうきを持って静かに待機している。彼女は吹き飛んだ扉の破片を見て、少しだけ悲しそうな顔をした。
そして、その奥にある革張りのソファの前に、俺は立つ。
邪悪な魔王が玉座で待ち構えると想像したのだろう。アルトは完全に拍子抜けした顔で、剣を構えたまま硬直する。
「いらっしゃい。随分と派手なノックだな」
俺が静かに声をかけると、アルトはビクッと肩を震わせ、慌てて表情を引き締めた。
「お、お前がこの迷宮を支配する邪悪な主か!」
「邪悪かどうかは知らないが、ここは俺の家だ。土足で上がり込まれるのは困る。それに、リムが掃除したばかりなんだ」
俺は腰に下げた安物の鉄剣をゆっくりと抜き放った。
十年間、毎日振り続けてきた相棒。刃こぼれが目立ち、見た目はみすぼらしいが、俺の手にはすっかり馴染む。
アルトは俺の構えを見て、微かに眉をひそめた。
「そんな錆びた剣で、俺と戦うつもりか? 舐めるなよ……俺は国から勅命を受けた勇者だ! お前のような悪を討ち果たし、世界を救う!」
真っ直ぐで、純粋な正義感。
自分が正しいと信じて疑わない、若さゆえの危うさ。
「世界を救う、か。立派な心がけだが、俺は自分の居場所を守りたいだけだ」
俺はため息をつき、剣の切っ先を軽く下げた。
「無駄な争いは避けたかったが、降りかかる火の粉は払うしかない」
「問答無用! 行くぞ!」
アルトが絨毯を蹴り立て、一足飛びに俺の眼前へと肉薄する。
白銀の聖剣が眩い光を放ち、空気を切り裂く鋭い音がラウンジに響き渡った。
勇者の名に恥じない、渾身のスキルを乗せた必殺の一撃。
すさまじい風圧が巻き起こり、ラウンジの観葉植物が大きく揺れる。リムがサッとテーブルの前に立ち塞がり、淹れたての紅茶を守るように両手を広げた。
だが、俺の目にはその軌道がはっきりと見えてくる。
十年間、来る日も来る日も迷宮に潜り、ただひたすらに剣を振り続けてきた。その地道な反復が、俺の基礎ステータスを常人には到達できない領域へと押し上げた。
俺は慌てることなく、半歩だけ前に出て、錆びた鉄剣を軽く振り上げる。
激しい金属音が弾け、衝撃波が周囲の空気を揺らす。
「なっ……!?」
アルトの顔に、明らかな戦慄が走った。
彼の全力の一撃を、俺は片手で持った錆びた鉄剣で軽々と受け止めたのだ。
ただの安物だと考えてきたこの剣は、俺の異常な膂力に耐えうる謎の頑丈さを備える。まるで重い岩を振り回すかのような質量が、聖剣の威力を完全に相殺する。
「嘘だろ……俺の全力だぞ……!」
アルトは歯を食いしばり、必死に剣を押し込もうとするが、俺の腕は微動だにしない。
自分の全力が全く通用しないという現実に、彼の瞳が揺れ動く。
「真っ直ぐで良い剣だが、少し力みすぎだ」
俺は静かに鉄剣を押し返し、アルトの体勢を崩した。
静かな日常を守るための戦い。
その反撃が、今、静かに始まろうとしていた。




