第九話 善意
五階の窓から見える壁は、夜になると余計に巨大に見えた。
まるで空そのものを塞いでいるみたいだった。
「……今日はもう動くな」
榊が背後から言う。
俺は振り返った。
「じゃあどうしろってんだよ」
「まず隠れろ。今の君は目立ちすぎる」
榊は相変わらず淡々としていた。
「政府側も完全には把握していないだろうが、保持者が動き回ればいずれ見つかる」
「……」
「土地勘もない。身分もない。知識もない」
言い返せなかった。
全部その通りだった。
榊は続ける。
「戻る場所はあるのか」
その言葉に、
俺は少しだけ迷った。
戻る場所。
そんなもの、この世界にあるはずがない。
だが。
頭に浮かんだのは、
あの狭いアパートだった。
変な喋り方をする女。
薄い布団。
妙に甘い匂い。
「……一応」
俺は小さく言う。
「助けてもらった女の部屋なら」
榊は静かに頷いた。
「なら今日はそこへ戻れ」
「……」
「今の君には、“普通の住民として居られる場所”が必要だ」
俺は返事をしなかった。
正直、自分でも分からなかった。
戻りたいのか。
戻りたくないのか。
榊は机の引き出しから小さな金属片を取り出した。
指先に乗るほど小さい。
黒いチップみたいな形をしている。
「国民スマホを出せ」
「……何だよ、それ」
「簡易遮断子だ。お守り程度だが、同期信号を少し乱せる」
俺は国民スマホを差し出した。
榊は裏蓋を開き、チップを内部へ差し込む。
カチ、と乾いた音。
「これで終わり?」
「強い効果はない。近距離探知を少し誤魔化せる程度だ」
「作ったの、お前?」
「私と安田だ」
すると二階から大声が飛んできた。
「ほとんど俺だろーが!」
榊は無視した。
「ただし過信するな。政府側の精度は高い」
スマホを返される。
「画面にマップボタンがあるだろ。今日通った道が記録されてあるはずだ、それを辿って帰れ」
榊は俺を見る。
「藤崎」
「なんだ」
「君はまだ、どちら側につくか決めなくていい」
静かな声だった。
「これからどう生きるか、君自身が決めろ」
榊は続ける。
「ただ一つだけ言える」
窓の外。
穏やかな街灯を見ながら、榊は低く言った。
「この世界で笑っている人間を、
簡単に“不幸”だと決めつけるな」
その言葉が妙に胸へ残った。
俺は雑居ビルを後にした。
夜風が少し冷たい。
街は静かだった。
相変わらず、人々は穏やかに笑っている。
『おつかれさま、です』
『いいよる、ですねえ』
ゆっくり歩く人々。
怒鳴り声はない。
クラクションもない。
本当に、
世界から“余裕のなさ”だけが消えてしまったみたいだった。
俺は無意識に国民スマホへ触れる。
小さな違和感。
中に何か入っている感触。
その時だった。
通りの向こうで、聞き覚えのある声がした。
「だいじょうぶ、ですよ」
俺は足を止める。
小さな広場だった。
『こころあんしんしょ』
ひらがなの看板。
淡い照明。
そこに、あの女がいた。
白いエプロン姿。
何人もの住民に囲まれている。
泣いている女の肩を撫で、
老人の手を握り、
子供の頭を優しく撫でていた。
「えらい、ですよ」
「ちゃんと、できてます」
「あしたも、ありますから」
みんな安心した顔で笑っている。
彼女も嬉しそうだった。
心から。
本当に心から。
だが。
俺の胸には、
妙な怒りが込み上げていた。
彼女は純粋すぎた。
誰かを安心させるたび、
褒められるたび、
嬉しそうに笑う。
まるで、
“そういう風に作られた”みたいに。
広場の奥には、
労働適性一覧の掲示が貼られていた。
『やさしいひと』
『おちつかせるひと』
『えがおができるひと』
全部、
役割として分類されている。
俺は思わず拳を握った。
「……ふざけんな」
優しい人間から順番に、
都合よく使ってるだけじゃないか。
彼女はそんな俺に気付かない。
一生懸命、
笑顔で働いている。
その姿が、
どうしようもなく痛々しかった。




