第十話 違和感
アパートへ戻る頃には、街の灯りも少なくなっていた。
空は妙に静かだった。
車の音も、
酔っ払いの怒鳴り声もない。
世界から雑音だけが切り取られてしまったみたいだった。
古い階段を上がる。
二階。
薄い鉄扉。
俺は少し迷ってから、静かにノックした。
数秒後、
ぱたぱたと足音が近付いてくる。
扉が開いた。
「あ……」
白い部屋着姿の女が、ほっとしたように目を丸くした。
「おかえり、です」
その言葉に、
なぜか少しだけ胸が詰まる。
俺は曖昧に頷いた。
「……ただいま」
口にしてから、
自分で妙な気分になった。
女は嬉しそうに微笑む。
「ごはん、あります」
「……ああ」
部屋へ入る。
狭い。
相変わらず生活感が薄い。
最低限の家具しかない。
だが、不思議と落ち着く匂いがした。
机には湯気の立つスープが置かれていた。
女は俺の顔を見ながら、小さく首を傾げる。
「おそい、でした」
「ちょっと歩いてた」
「おさんぽ、です?」
「……まあ、そんな感じ」
女は納得したように頷いた。
深く追及してこない。
そのことに少し安心する。
俺は椅子へ座り、ぼんやり机を見る。
榊の話が頭の中で何度も反響していた。
再構築。
保持者。
管理区域。
役割。
この世界では、
人間は政府に適性を決められ、
配置されるのだろう。
仕事も。
住む場所も。
人間関係すら。
そう考えると、
さっき見た『こころあんしんしょ』も理解できた。
あの女は、
優しいからあそこへ置かれた。
きっとそれだけだ。
人間性すら、
労働資源として分類されている。
俺は無意識に国民スマホを取り出した。
白くて薄い。
妙に冷たい。
画面をつける。
だが、
表示されたのは読み込み中の円だけだった。
くるくる回り続けている。
「……なんだこれ」
おかしい。
さっき、
労働時間の通知だけは鳴った。
『ろうどうじかんが、ちかいです』
確かにそう表示された。
なのに。
肝心の仕事内容が出てこない。
配属先も。
役割も。
何も表示されない。
ロード画面だけが回り続けている。
俺は眉をひそめた。
「壊れてんのか……?」
女が隣から画面を覗き込む。
「あれ」
「……?」
「まだ、きまてない、です?」
「決まってない?」
女はこくりと頷く。
「おしごと、ないひと、います」
「……そんなことあんのか」
「あります。あいも、まえ、そうでした」
その名前に、
俺は少しだけ顔を上げた。
「あい?」
女はきょとんとする。
「……あい、です」
自分を指差す。
「あい」
どうやら名前らしい。
俺は少し間を置いて頷いた。
「……藤崎」
「ふじさき、さん」
たどたどしく名前を繰り返す。
それだけなのに、
妙にくすぐったかった。
あいは俺のスマホを見つめながら言う。
「おしごと、きまるまで、まつ、です」
「いつ決まるんだ」
「わからない、です」
不思議そうに首を傾げる。
「でも、だいじょうぶ、ですよ」
その言葉を聞いた瞬間、
なぜか少し寒気がした。
この世界の人間は、
“待つこと”に疑問を持たない。
決められることを、
当たり前だと思っている。
俺はロード画面を見つめる。
白い円は、
ずっと静かに回り続けている




