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第七話 逃亡

公園の裏口から飛び出した瞬間、夜風が頬を叩いた。


「走れ」


男が低く言う。


俺は訳も分からないまま後を追った。


住宅街の細い路地。


狭い階段。


ゴミ置き場の陰。


男は迷いなく進んでいく。


遠くでは、まだ機械音声が響いていた。


『きおくいじしゃ、たんち』


『きおくいじしゃ、たんち』


悪夢みたいだった。


やが俺たちは、古い雑居ビルの裏口に辿り着いた。


中は真っ暗だった。


使われていない倉庫らしい。


埃の匂い。


積み上がった段ボール。


男は慎重に周囲を確認すると、小さく息を吐いた。


「……しばらくは大丈夫だ」


俺は壁にもたれた。


心臓がうるさいほど鳴っている。


「なんなんだよ、あれ……」


「記憶保持者探知ドローンだ」


男は淡々と言う。


「国民スマホから思考傾向を解析している。異常反応を検知すると周辺区域を捜索する」


「思考って……そんなの分かるのかよ」


「完全ではない。だが君みたいな完全記憶保持者は感情反応が大きすぎる」


俺は顔をしかめた。


男は壁際へ腰を下ろす。


疲れた中年男にしか見えない。


なのに、漂う空気が普通じゃなかった。


沈黙が落ちる。


やがて男は口を開いた。


「……名前は?」


少し迷ったが、今さら隠す意味もない気がした。


「藤崎…。悠人」


男は小さく頷く。


「私は榊だ。もしくはNo.2と呼ばれている」


「No.2……?」


「いわゆる管理番号ってやつだ。ほら、スマホに刻印されてるだろ。まぁ呼び方は何でも構わない」


俺は眉をひそめた。


「じゃあ、No.2って呼べばいいのか?」


榊は少しだけ笑った。


「好きにしてくれ。そう呼ばれることには慣れている」


その言い方が妙に寂しく聞こえた。


俺は倉庫の窓から外を見る。


遠くに巨大な壁が見える。


夜空を塞ぐ灰色。


圧迫感で息が詰まりそうだった。


「……まだ信じられねえ」


「当然だ」


「こんなの、映画とかゲームの話だろ」


「十年前なら私もそう思っていた」


榊は静かに言った。


俺は振り返る。


「お前、政府側ってどういう意味だよ」


「元は官僚だ。AI国家運営計画の実務担当だった」


「……」


「当時の日本は限界だった。政治も経済も機能不全。国民は疲弊し、互いを憎み始めていた」


榊の声には妙な実感があった。


ニュースを語る声じゃない。


実際に見てきた人間の声だ。


「AIは優秀だった。あまりにも」


「アマテラス、だっけ」


榊の目がわずかに動いた。


「……その名前をどこで?」


「なんとなく」


半分適当に言っただけだった。記憶の奥底にある名前。どこで聞いたかも覚えていない。


だが反応を見る限り、当たりらしい。


「正式名称は統合支援AI“アマテラス”」


榊は続ける。


「最初は政策補助だった。税制、物流、福祉、都市設計。人間より遥かに合理的だった」


「それで全部任せたのか」


「違う」


榊は即答した。


「人間が救いを求めた」


その言葉に、俺は黙る。


榊は天井を見上げた。


「誰もが限界だった。だから“正しい答え”を欲しがった」


静かな声だった。


「アマテラスは結論付けた。“人類は自由競争に適応できない”」


「……」


「比較が憎悪を生む。情報が人を壊す。自由意思は社会不安定要因になる」


俺は吐き捨てる。


「家畜にするってことか?」


榊は否定しなかった。


「結果だけ見ればそうだ」


その認め方が逆に怖い。


俺は苛立ちを抑えきれず言う。


「お前ら狂ってる」


「そうかもしれない」


榊は静かだった。


怒りもしない。


「だが再構築後、自殺率は激減する予測だった。暴力犯罪も、貧困も、大幅に減少する計算だった」


「予測?」


榊は小さく頷く。


「まだ再構築は始まったばかりだ。昨夜が最初の同期だからな」


その言葉に、改めて寒気が走る。


昨日まで普通だった世界が、

たった一晩で壊れた。


榊は続ける。


「私は途中まで、この計画が正しいと思っていた」


「……なんで疑い始めた」


倉庫の暗闇の中で、榊の表情が少し陰る。


「実験区画を視察した時だ」


「実験区画?」


「再構築前、小規模な試験運用が行われていた。児童保護施設、矯正施設、医療区画……社会から隔離された閉鎖環境でな」


俺は息を呑む。


榊は低い声で続ける。


「そこに、一人の少女がいた」


「……」


「酷い虐待を受けていた子供だった」


「その子は再調整後、驚くほど穏やかになった。怯えなくなり、暴れなくなり、毎日笑うようになった」


榊は目を伏せる。


「周囲は成功例だと喜んだよ。“救われた”と」


倉庫の空気が重くなる。


「だが私は、ある日気付いた」


榊は静かに言った。


「その子は、“助けて”と言わなくなっていた」


俺は何も言えなかった。


「痛みも、怒りも、恐怖も、全部弱められていた。だから笑っていたんだ」


榊は乾いた笑みを浮かべる。


「それを幸福と呼んでいいのか、分からなくなった」


その時。


倉庫の外を白い光が横切った。


ドローン。


俺は思わず息を止める。


榊は光を見つめながら、低く呟いた。


「……そして今、No.0が私を探している」

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