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第六話 記憶保持者

「政府側……?」


俺は呆然と呟いた。


多目的トイレの薄暗い蛍光灯が、男の顔を青白く照らしている。


男はしばらく黙って主人公を見ていた。


まるで、

どこまで話すべきか測っているみたいだった。


やがて、小さく息を吐く。


「……時間がない。だが、君は知るべきだ」


男はトイレの入口を確認し、静かに鍵を掛けた。


カチリ、と乾いた音。


その瞬間、

妙な閉塞感が生まれる。


「まず確認する。君は昨日まで、“日本”で生きていたな?」


「……ああ」


「漢字が読める」


「読める」


「自分の名前を書ける」


「当たり前だろ」


男は目を閉じた。


どこか安心したような顔だった。


「やはり完全保持者か……」


「さっきから何なんだよ、それ」


男は壁へ背を預ける。


「この世界は、君の知っている日本じゃない」


「それは分かってる」


「違う。比喩ではない」


静かな声だった。


だが重かった。


「十年前、日本政府は国家運営AIを導入した」



「AI……?」


「当時の日本は崩壊寸前だった。格差、少子化、自殺、暴動、経済停滞。誰も未来を信じていなかった」


男の声には感情がなかった。


まるで昔の記録を読み上げるみたいに。


「政府はAIへ尋ねた。“どうすれば日本人は幸福になるか”」


「……」


「AIは答えた。“自由競争を停止してください”」


笑いそうになった。


いや、笑えなかった。


男は続ける。


「人間は比較によって壊れる。情報によって憎しみを増幅させる。自由は格差を生み、孤独を生み、弱者を切り捨てる――それがAIの結論だった」


「待てよ……」


頭がじわじわ痛み始める。


「だから洗脳したってのか?」


「“再構築”だ」


男は即答した。


「政府は十年かけて準備した。国民スマホの普及。現金廃止。壁による都市区画。全て再構築のためだ」


言葉を失った


壁。


国民スマホ。


全部。


最初から。


「……嘘だろ」


「君も持っていただろう。スマホを」


脳裏に、昨夜の光景が浮かぶ。


公園。


通知。


苛立ち。


投げたスマホ。


男は俺の反応を見て、静かに頷いた。


「国民スマホには、微弱な神経誘導機能が組み込まれていた。十年かけ、人々の脳を“再構築に適応できる状態”へ調整していたんだ」


「……っ」


「そして昨夜。全国一斉同期が行われた」


呼吸が浅くなった。


昨夜の耳鳴り。


街の点滅。


スマホを抱えて立ち止まる人々。


「じゃあ……みんな……」


「記憶を書き換えられた」


男は淡々と言った。


「知能も一部抑制されている。複雑思考、反抗心、攻撃性。そういったものを弱めた」


吐き気がした。


「だから言葉が……」


「高度言語機能も制限されている。漢字を失ったのはそのためだ」


「ふざけんな……!」


声が漏れる。


トイレの壁へ反響した。


「人間を何だと思ってんだ!」


男は怒らなかった。


ただ静かに主人公を見る。


「君は旧世界を美化している」


「は?」


「虐待。孤独死。過労死。自殺。誹謗中傷。毎年何万人も壊れていた」


言い返せなかった。


男は続ける。


「今の世界に飢餓は少ない。犯罪も激減した。人々は互いを傷付けにくくなった」


「だからって……!」


「だから政府は選んだ」


静かな声。


だが、その言葉には重さがあった。


「“自由”より“安定”を」


沈黙が落ちる。


遠くで電車みたいな音がした。


俺は息を荒げながら、男を睨んだ。


「……お前は何なんだよ」


男は少しだけ目を伏せた。


「私はナンバーズ。九つの管理地区を統括する者の一人だった」


白い端末を見せる。


『2』


たった一桁の数字。


それだけで異様な威圧感がある。


「各街には記憶保持者の管理員がいる。人々を監視し、幸福度を維持する役目だ」


「……飼育じゃねえか」


男は否定しなかった。


「そうかもしれない」


その返答が、逆に怖かった。


「じゃあ何でお前はコソコソ隠れるようなマネをする」


そこで初めて、

男の表情が少しだけ揺れた。


疲れたような目。


「……答えが分からなくなった」


小さな声だった。


「この世界は、本当に正しいのか」


その時だった。


男の端末が微かに震える。


彼の顔色が変わった。


「まずい」


「え?」


男は即座に照明を消した。


トイレの中が暗闇に沈む。


外。


公園の向こうから、

複数の白い光が近付いてくる。


サーチライトだった。


そして機械音声。


『きおくいじしゃ、たんち』


『きおくいじしゃ、たんち』


主人公の背筋が凍る。


男は低く呟いた。


「……見つかった」

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