第三話 違和感
部屋へ戻ると、女はほっとしたように胸を撫で下ろした。
「あ、よかたです……」
玄関の前で靴を揃えながら、俺はようやく冷静になっていた。
何をやってるんだ、俺は。
助けてもらった側なのに。
「……ごめん」
女がきょとんとする。
「さっき、その……大声出して」
言葉を探しながら頭を下げた。
「助けてくれたのに。まず、感謝するべきだった」
女はしばらく俺を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「あがりとう、です」
まただ。
“ありがとう”。
その少し崩れた響きが、妙に胸に残る。
女は慌てて手を振る。
「だいじょぶ、ですよ。びくり、しただけです」
びくり。
おそらく“びっくり”のことだろう。
俺は苦笑しそうになって、でも笑えなかった。
この世界の違和感が、少しずつ現実として身体に染み込んできている。
女は俺を座布団へ座らせると、湯呑みを差し出した。
「のみますか」
「あ……ありがとう」
温かい麦茶だった。
二日酔いの胃に染みる。
そういえば頭も酷く痛い。
身体もだるい。
昨夜からまともに状況整理できていなかったが、普通に考えればかなり危ない状態だ。
女は向かいに正座すると、一生懸命説明しようとしてくれた。
「ここ、みなみな、です」
「うん……」
「あなた、きのう、そと、ねてました」
「それは分かる」
「ろうどう、してない、でしたから、へん、なるです」
何となく意味は分かる。
でも細かい部分が噛み合わない。
俺が困った顔をすると、女はさらに慌てた。
「えと、えと……」
両手をぶんぶん動かしながら説明しようとする。
「みんな、ろうどう、します」
「……働く?」
「あい!」
「働かないとどうなるんだ?」
女はそこで止まった。
少し考え込む。
やがて、不安そうに言った。
「かなしい、なります」
「悲しい?」
「ごはん、へる、です」
給料みたいなものか。
だが話が曖昧すぎる。
まるで子供と会話しているみたいだった。
いや、違う。
子供ではない。
この世界の“普通”がこうなのだ。
その事実がじわじわ怖くなる。
「……ここ、日本だよな?」
女はまた困った顔をした。
「にほん……?」
知らない単語を聞いた反応だった。
心臓が嫌な音を立てる。
女は申し訳なさそうに俯く。
「ごめんなさい。わたし、べんきょう、すくないです」
違う。
君が悪いわけじゃない。
そう言おうとしたが、頭痛が急激に強くなった。
「っ……」
視界が揺れる。
吐き気までしてきた。
女が慌てて立ち上がった。
「だいじょぶ、ない!」
「いや、ちょっと……二日酔い、かも……」
「にに、よい……?」
「酒……飲みすぎた」
すると女は「あ」と何か理解したように頷いた。
「さけ、ですか!」
そして急いで台所へ向かう。
ガタガタと棚を開ける音。
その間、俺はぼんやり部屋を見回した。
狭い部屋だ。
だが不思議と居心地は悪くない。
古い扇風機。
小さな観葉植物。
干しっぱなしのタオル。
誰かがちゃんと生活している空気がある。
棚には写真立てが置かれていた。
しかし写真は入っていない。
空っぽだった。
少し気になった時、女が戻ってきた。
「これ、きく、です」
差し出されたのは、透明な液体の入ったコップ。
「……水?」
「あい。しお、いれました」
恐る恐る飲む。
しょっぱい。
でも身体が少し楽になる。
「……うまい」
女はぱっと表情を明るくした。
「よかたです!」
本当に嬉しそうだった。
打算も、警戒もない。
純粋に、
“役に立てたこと”を喜んでいる顔。
その無垢さが、
逆に胸を締め付けた。
俺はコップを持ったまま、小さく息を吐く。
「……今日は、ちょっと休ませてもらっていいかな」
女はすぐ頷いた。
「あい。いっぱい、やすむ、です」
当然のように言う。
まるで、
働かないことを責める感覚が存在しないみたいに。
女は押し入れからもう一枚毛布を出すと、丁寧に俺へ掛けた。
「ここ、あんしん、ですから」
その言葉に、なぜか少しだけ泣きそうになった。




