表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/45

第二話 国民スマホ

「おなか、すいた、ですか?」


女はそう言って、小さな茶碗を机に置いた。


湯気が立っている。


白い粥だった。


俺はそれを見つめたまま、しばらく動けなかった。


テレビでは相変わらず、ひらがなだけのニュースが流れている。


『きょうの、ろうどうてきせい、へんこうしゃ、です』


画面の端では、笑顔の男女が手を振っていた。


意味が分からない。


頭が追いつかない。


「……いや、えっと」


俺は掠れた声を出した。


「ここ、どこですか」


女は少し考え込むように首を傾げる。


「ここ、みなみな、です」


「みなみな?」


聞いたことがない。


「県は? 千葉? 東京?」


「けん……?」


女は本当に分からないという顔をした。


背筋に冷たいものが走る。


冗談じゃない。


俺は立ち上がった。


くらりと視界が揺れる。


「だ、だめです、まだ」


女が慌てて支えようとする。


細い手だった。


「会社……!」


口から勝手に言葉が出た。


「やばい、遅刻——」


そこで止まる。


会社。


今日は何曜日だ。


何時だ。


スマホ。


「スマホ……!」


慌ててポケットを探る。


ない。


上着。


ズボン。


布団の周り。


ない。


昨日、公園で投げた。


そこまで思い出して、血の気が引いた。


「あ……」


最悪だ。


終わった。


連絡もできない。


絶対怒鳴られる。


減給かもしれない。


頭の中で上司の顔が浮かぶ。


『社会人としての自覚が——』


胃が痛くなる。


女が心配そうに覗き込んできた。


「だいじょぶ、ない、ですか?」


「スマホ! 黒いスマホ! ここにありませんでしたか!?」


俺が早口で言うと、女は目をぱちぱちさせた。


「すまほ……?」


通じない。


いや、違う。


何かを思い出したように、女は「あ」と声を漏らした。


そして部屋の棚から、小さな板のようなものを持ってくる。


真っ白だった。


薄い。


掌サイズ。


装飾も何もない。


ただ中央に、小さく数字が刻まれている。


『458-221-77』


「こくみん、です」


「……は?」


「こくみん、すまほ、です」


それを俺に差し出してくる。


恐る恐る受け取った。


異様に軽い。


ボタンもない。


電源も見当たらない。


「なにこれ……」


女は自分のポケットから同じ物を出した。


そっくりだった。


ただし番号が違う。


『458-221-78』


連番だった。


気味が悪い。


「みんな、もちます」


女は当たり前のように言う。


「しはらいも、れんらくも、ろうどうも、ぜんぶ、これです」


俺は息を呑んだ。


「現金は?」


「げん……?」


また通じない。


その瞬間。


白い端末が突然震えた。


何も押していないのに、画面が光る。


そこに文字が浮かぶ。


『ろうどうじかん おくれ ちゅうい』


ぞわり、と鳥肌が立った。


「なんだこれ……」


女は慌てて頭を下げる。


「ご、ごめんなさいです」


「え?」


「わたし、きづく、おそいでした。あなた、ろうどうじかん、ありますね」


本気で申し訳なさそうだった。


責められているわけじゃない。


怒っているわけでもない。


ただ純粋に、

「困らせてしまった」

と思っている顔だった。


その善意が逆に怖かった。


俺は端末を握りしめたまま、部屋を飛び出した。


「え、あ、まってです!」


後ろで女の声が聞こえる。


狭い階段を駆け下りる。


外へ出た瞬間、朝の光が目に刺さった。


東京の下町みたいな風景だった。


古いアパート。


狭い道路。


電柱。


小さな商店。


どこにでもある街並み。


なのに。


違う。


人々がおかしい。


「おはよう、です」


「きょう、あつい、ですねえ」


「ろうどう、がんばる、です」


みんな笑っている。


穏やかで。


怒っている人がいない。


スマホを見ながら舌打ちする奴も、

駅へ走るサラリーマンも、

苛立って怒鳴る車もない。


代わりに、

妙にゆっくり歩く人々。


まるで、

全員が少しだけ幼い。


店先の八百屋では、

店主と客がのんびり会話していた。


「きょう、やすい、ですよ」


「わあ、うれしい、です」


優しい。


優しすぎる。


気持ち悪い。


その時。


遠くに見えた。


街の向こう。


空を横切るような巨大な灰色の壁。


あまりにも高い。


マンションなど比べ物にならない。


街全体を囲うように、どこまでも続いている。


「なんだ……あれ……」


通行人の一人に聞こうとして、言葉が止まる。


みんな、

壁を全く見ていなかった。


まるで最初から存在しているみたいに。


その時だった。


背後から小さな声。


「……そと、きけん、です」


振り返る。


あの女がいた。


息を切らせながら、

裸足のまま追いかけてきている。


「あなた、まだ、へん、です」


へん。


その言葉が妙に胸に刺さった。


女は困ったように眉を下げる。


でもその目には、

恐怖ではなく心配しかなかった。


「おへや、もどる、しませんか」


俺は返事ができなかった。


遠くの壁を見上げる。


その向こうに、

俺の知っている世界がある気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ