第一話 ありがとう
雨上がりの夜だった。
居酒屋の暖簾をくぐると、湿った風が頬を撫でた。
駅前のネオンが濡れたアスファルトに滲んでいる。
「いやー、飲んだな」
隣で友人の高木が大きく伸びをした。
赤ら顔のまま、ネクタイを緩めて笑っている。
「お前、明日朝一会議じゃなかったっけ」
「あるよ。だから飲んでんだろ」
「終わってんな」
「日本そのものが終わってる」
高木は冗談っぽく笑った。
だがその目には、妙な疲れがあった。
最近みんなそんな顔をしている。
物価はまた上がった。
会社ではリストラの噂。
SNSを開けば政治叩きと他人への罵倒ばかり。
誰もが何かに苛立っていて、でも、その原因が何なのかも分からなくなっている。
「……なあ」
高木が煙草に火をつけながら言った。
「この国、一回リセットした方がいいと思わね?」
「また始まった」
「だってさ、もう無理だろ。頑張った奴から壊れてくじゃん」
煙を吐きながら、高木は空を見た。
「AIに全部管理してもらった方が、案外平和かもな」
「怖いこと言うなよ」
「もう十分怖いだろ、今が」
返す言葉がなかった。
沈黙を誤魔化すように、高木は笑う。
「まあいいや。また来週な」
「おう」
高木は駅へ消えていった。
人混みに紛れて、すぐ見えなくなる。
俺は一人になった。
酔っているはずなのに、妙に頭だけ冴えていた。
まだ帰りたくなかった。
コンビニに入り、缶ビールを一本買う。
ついでにスマホを見る。
通知が山ほど溜まっていた。
『至急確認お願いします』
『明日の件ですが』
『進捗どうなってます?』
『未返信です』
会社。
会社。
会社。
舌打ちが漏れる。
こんな時間まで追いかけてくるのか。
通知は止まらない。
震えるスマホを見ていると、胸の奥がじわじわ重くなった。
もう嫌だった。
全部。
仕事も。
人付き合いも。
毎日誰かに評価されることも。
気付けば三十代後半。
何者にもなれないまま、ただ消耗している。
ふと、公園が目に入った。
小さな公園だった。
滑り台とブランコだけの、古い場所。
俺は吸い込まれるようにベンチへ座った。
缶を開ける。
炭酸の音が夜に響く。
スマホがまた震えた。
画面には上司の名前。
その瞬間、何かが切れた。
「……うるせぇな」
俺はスマホを思い切り投げた。
黒い端末は植え込みへ消える。
ガサッ、と音がした。
少しだけ気分が軽くなる。
ビールを飲む。
雨上がりの風が冷たい。
遠くで救急車の音が聞こえた。
空を見上げる。
雲の隙間から、ぼんやり月が見える。
その時だった。
街中の大型モニターが、一瞬だけ白く点滅した。
信号も。
自販機も。
コンビニのガラスも。
街が、わずかに明滅する。
「……?」
酔いのせいかと思った。
だが次の瞬間、耳鳴りがした。
キィィィィ――――。
頭の奥を掻き回されるような不快音。
思わず顔をしかめる。
周囲を見る。
歩いていた人々が、一瞬だけ立ち止まっていた。
みんなスマホを握っている。
いや。
抱き締めるように持っていた。
気味が悪かった。
耳鳴りはすぐ消えた。
街は何事もなかったように動き始める。
俺は急に寒気を覚えた。
酔いが回ったのかもしれない。
身体が重い。
視界が滲む。
ベンチに深くもたれかかる。
眠気が一気に押し寄せてきた。
まずい。
帰らないと。
そう思ったところで、意識が暗転した。
知らない天井だった。
白い。
古い染みの浮いた、安っぽい天井。
頭が痛い。
喉が渇いている。
身体を起こすと、ギシ、と古い布団が鳴った。
「……どこだ、ここ」
六畳ほどの狭い部屋。
小さな棚。
折り畳み机。
薄いカーテン。
生活感はある。
だが、自分の部屋では絶対にない。
その時。
「……あ」
声がした。
部屋の隅。
若い女が座っていた。
二十代前半くらい。
エプロン姿で、小さな鍋をかき混ぜている。
女は俺と目が合うと、少し安心したように笑った。
「あ、おき、ましたか」
言葉に違和感があった。
日本語だ。
だが、どこか崩れている。
「……え?」
女は慌てたように立ち上がる。
「だいじょぶ、ですかね。きのう、こうえん、たおれてましたから」
……たおれてましたから。
意味は分かる。
分かるのに、妙に気持ち悪い。
「あなたが……ここまで?」
「あい。ひと、よびました。でも、だめで。だから、はこびました」
「あい?」
女は不思議そうに首を傾げた。
「あい、です」
“はい”のことか。
俺は言葉を失った。
その時、奥でテレビが鳴る。
『ほんじつの、はいきゅうよてい、です』
反射的に画面を見る。
ニュース番組だった。
だが。
テロップが全部ひらがなだった。
漢字が、一文字もない。
『みなみなわ、だいさんく、てんき、くもり』
みなみなわ?
なんだそれ。
嫌な汗が背中を流れる。
女は鍋を机へ置きながら、小さく笑った。
「おなか、すいた、ですか?」




