第十三話 不穏
気付けば、
この世界へ来てから一ヶ月近く経っていた。
最初は受け入れ難い現実の数々だった
だが人間は慣れる。
慣れてしまう。
朝起きて。
あいの淹れた薄いスープを飲んで。
静かな街を歩く。
誰も怒鳴らない。
誰も焦っていない。
夜になれば、
ぼんやりした灯りの下で人々が笑っている。
そんな毎日だった。
俺は相変わらず仕事を割り振られていなかった。
国民スマホは、
時々労働時間の通知だけを鳴らす。
だが、
肝心の内容はずっとロード画面のままだ。
榊に聞いても、
「完全保持者だからだろう」
としか言わなかった。
その代わり、
俺は時々雑居ビルへ通うようになっていた。
榊たちの拠点。
最初は不気味だったが、
今では落ち着ける場所だ。
安田は相変わらず騒がしいし、
小宮は会うたび壁の絵を描いている。
将棋の老人は、
未だに名前を教えてくれない。
そして、
日に日に記憶保持者は増えていた。
「また見つけたのか」
ある日、
俺が言うと、
榊は窓際で立ったまま頷いた。
「軽度保持も含めれば、もっといる」
「そんなに?」
「政府も完全ではない」
榊は静かな声で続けた。
「スマホを遠ざけていた者。
地下にいた者。
電波障害区域にいた者。
理由はいくらでもある」
最近は、
保持者たちが雑居ビルへやってくる場面をよくみる
泣き叫ぶ奴。
現実を受け入れられない奴。
逆に、
この世界を気に入って戻っていく奴もいた。
榊は止めなかった。
「本人が望むなら、それでいい」
それが榊の考えだった。
ある夜、
俺は雑居ビルの屋上で榊に聞いた。
「お前、結局何がしたいんだ?」
榊はしばらく黙っていた。
壁の向こうを見ている。
「……藤崎」
「ん?」
「君は、この世界をどう思う」
答えに詰まった。
最初は狂ってると思った。
今も完全には受け入れられない。
でも。
街には怒鳴り声がない。
自殺ニュースもない。
終電へ押し込まれる人間もいない。
こころあんしんしょには、
毎日誰かの“ありがとう”がある。
「……分かんねえよ」
それが本音だった。
榊は小さく頷いた。
「それでいい」
夜風が吹く。
遠くで、
巡回ドローンの光がゆっくり流れていった。
この世界は不自由だ。
でも。
前の世界は、
本当に自由だったんだろうか。
最近、
そんなことばかり考えていた。




