第22話 近くてまだ遠い満開
学園の古い温室は、夜の静けさに包まれていた。
月明かりがガラス屋根を透かし、古びた白百合の蔓が淡く輝いている。
二人は、誰もいないその場所で静かに向き合っていた。
桜良の紫銀の瞳は、穏やかでありながら深い想いを湛えていた。
紡は小柄な体を少し緊張させ、琥珀の瞳で桜良を見つめ返している。
「紡さん……」
桜良はゆっくりと手を伸ばし、紡の柔らかな頰に指先を這わせた。
指の腹が優しく滑り、温かな肌の感触を確かめるように。
紡の頰が、ほのかに桜色に染まった。
桜良はもう片方の手で、紡の腰を優しく引き寄せた。
二人の距離が、ゆっくりと縮まる。
唇が、触れ合う寸前まで近づいた。
桜良はそこで動きを止め、紡の瞳を真っ直ぐに見つめた。
そこにあるのは、純粋で揺るぎない覚悟だった。
ルリカの棘に傷つきながらも、自分から選んだ道への決意。
その覚悟の美しさに、桜良の胸が熱くなった。
「……紡さん」
囁くように名前を呼び、桜良はごく軽く、甘美なキスをした。
唇が、そっと重なるだけの、触れる程度のキス。
熱く湿った感触ではなく、柔らかく優しい、蕾がそっと触れ合うようなキス。
その瞬間——
二人の周囲で、白と桜色の光の粒子が強く、激しく舞い上がった。
これまでで最も濃い、甘い百合の香りが温室全体に広がり、蔓のような柔らかな光が二人を優しく包み込んだ。
紡の小さな体が、わずかに震えた。
桜良の唇の温かさが、胸の奥まで染み渡る。
キスは長くは続かなかった。
桜良はゆっくりと唇を離し、紡の額に自分の額を優しく寄せた。
「開花は……もうすぐ、です。
でも、まだ……遠い」
桜良の声は切なく、しかし優しかった。
紡は小さく頷き、桜良の胸に顔を埋めた。
「はい……でも、私は、待っています。先輩と一緒に……咲くことを」
二人はそのまま、静かに抱き合いながら、温室の夜を過ごした。
強い光の粒子と濃い香りが、まだ二人を包み続けている。
しかし、花弁は完全に開くには至らず、蕾のまま、甘く疼く予感だけを残していた。
咲いてしまった花は、もう戻らない——
その運命の予感が、二人の間に静かに、しかし確かに広がっていた。




