第19話 政府の影と看病の代償
放課後の教師棟の一室は、静かで少し重い空気に包まれていた。
白百合 カンナは眼鏡の奥から穏やかな視線を向け、紡を静かに見つめていた。
小柄な1年生は、椅子に座ったまま両手を膝の上で固く握りしめ、琥珀の瞳を不安げに揺らしている。
「桜庭 紡さん。少し大事な話があるの」
カンナの声はいつも通り落ち着いていたが、内容は重かった。
「あなたの母親に対する政府の医療サポートが、昨日から正式に始まりました。
専門の看護師を派遣し、定期的な往診と必要な薬の確保、生活の負担を軽減するための補助も行われます。」
紡の瞳が大きく見開かれた。
「……本当ですか?」
「ええ。でも、その支援には条件があります」
カンナは資料を軽く指で叩きながら続けた。
「学園側から、政府に対してあなたの『適性観察の強化』と『ストレス管理の徹底』を要請しました。
つまり、あなたの日常や精神状態を、より詳細に把握し、必要に応じて介入できる体制を整えるということです。
これは、守り人候補としての適性を安定させるための措置です。」
紡の顔から、血の気が引いた。
「私の……せいで、母さんが特別扱いされる……?」
彼女の声は小さく震えていた。
母親の病気を看病する日々が、突然「観察」の対象になる。
自分の存在が、家族の日常を歪めてしまうという現実が、胸に重くのしかかった。
「私は……ただ、母さんのそばにいたいだけなのに……
自分のせいで、母さんが特別な目で見られるなんて……」
紡の瞳に、涙がにじんだ。
献身的に看病を続けてきた彼女にとって、これは予想外の代償だった。
その日の夕方、紡は迷った末に桜良を温室に呼び出した。
二人はいつもの花壇の近くに並んで立ち、雨上がりの湿った空気を吸っていた。
「桜良先輩……少し、相談したいことがあって……」
紡は勇気を振り絞って、今日のカンナとの話をすべて伝えた。
母親へのサポートが始まったこと、しかしそれに「適性観察の強化」と「ストレス管理」が条件として付いていること。
そして、自分のせいで母さんが特別扱いされることに罪悪感を抱いていること。
桜良は静かに聞き終え、紫銀の瞳を伏せた。
「……私が、カンナ先生にあなたを指名したのです。
次世代の守り人候補として、あなたの適性が私と強く響き合うと伝えたのは、私です」
紡が驚いた顔で桜良を見上げた。
「先輩が……?」
桜良は小さく頷いた。
「ええ。でも……母親へのサポートの実施や、観察の強化について、私は詳しく知らされていませんでした。
カンナ先生は、私に伝えずに政府と調整を進めていたようです」
彼女の声に、苦い響きが混じった。
世界の均衡を支える守り人という立場。
現守り人である葵と沙耶の力が弱まりつつある今、次世代のペアが一刻も早く必要とされている現実。
そして、そのために個人の家族までもが巻き込まれるということ。
桜良は改めて、世界の重圧を痛感した。
(私は……紡さんを、守り人候補として指名した。
でも、それは彼女の大切な日常を、こんな形で歪めてしまうことだった……)
紫銀の瞳に、深い苦悩の色が浮かんだ。
紡は桜良の袖を、そっと指で掴んだ。
「先輩……私は、怖いけど……
先輩と一緒にいると、心が少し落ち着くんです。
母さんのことも……きっと、なんとかしたいと思っています」
桜良は、その小さな手に自分の手を重ねた。
「紡さん……ありがとう。
私は、あなたを傷つけたくない。
でも、世界は待ってくれない……」
二人は温室の中で、手を繋いだまま、静かに立ち尽くしていた。
政府の影は、すでに二人の周囲に忍び寄っていた。
母親の看病という純粋な愛情が、守り人の運命と交錯し始めた瞬間だった。




