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第2話 佐藤瑠璃は本物の偶像である。

 それから一週間が経った。

 佐藤とは毎日、よく喋った。新作アニメの毒にも薬にもならない批評から、授業中の睡魔との戦い方まで。内容は本当に、他愛のないことばかり。


 正直、かなり打ち解けたと思う。いや、佐藤は最初から全開で打ち解けてるけど。


「おはよー阿久津くん! 昨日やってた『爆走!昆虫忍者メイド・カブトマルZ』の九話見た?」

「一話切りどころかタイトルで切るだろ普通」


 相変わらず、佐藤は頭のネジが数本飛んだようなアニメを好んで見ている。


「えー面白かったのに~」


 不満げに頬を膨らませるが、すぐにコロッと、いつもの輝くような笑顔に切り替わる。


「あ、あと阿久津くんが昨日おすすめしてくれた、『信号待ちの三日月』も三話まで見たよ! 一話だけだと『え、どういうこと?』ってなってたのが、三話の最後で湖の色が変わる瞬間に全部つながるの! 鳥肌立ったよー!!」

「昨日の今日でもう見てくれたんだ。いつも早いよな」


 彼女に作品を勧めると、必ずその日のうちに最低一話は消化してくる。そして翌日には、こうして感想を届けてくれる。毎回、必ずだ。そしてその内容は明らかに、細部までじっくり見ていないと出てこないものばかりだ。


 嬉しい反面、疲れる日はないのかと不思議に思う。見ている限り、彼女は放課後も頻繁に友人と遊び歩いているようなのに。

 俺なら体育があった日とか、さっさと帰宅して必要最低限のルーチンだけこなしたらすぐ寝てしまうのに。


「えー? そりゃあ見るよ! 阿久津くんのおすすめ、いつも外れないからね!」


 屈託なく笑う。彼女はいつだって、光を放つように元気だ。

 その完璧な笑顔に引きずられるように、俺の口角も自然と緩むのを感じた。


 そんなやり取りの最中。教室のど真ん中にいた、いわゆる一軍の女子がくるりとこちらを向くのが見えた。


「ねー佐藤! この前佐藤に選んでもらったクッションファンデさぁ」


 唐突に声をかけてきた。無論、佐藤に。俺は空気である。


「なんかヨレるっていうか、セミマットな感じにならないんだよね」

「あー、それならパフで叩き込む前に、フィックスミスト挟んでからルースパウダーでTゾーンだけ押さえるといいよ! 全然テカらなくなるし」


 佐藤はスタスタと、迷いのない足取りで華やかな群れの中へと溶け込んでいった。

 なんだか急に静かになった。室温が、ほんの少し下がったような錯覚。


 佐藤はクラスの誰とでも話す。それぞれの話題で、誰とでも同じように、楽しそうに。

 今は派手な女子たちと、多分、化粧の話題で大いに盛り上がっている。何で「多分」かというと、俺が無知すぎて彼女たちが話している単語の九割が理解できないからだ。あれは本当に日本語だろうか。


 やっぱり佐藤は人気者で、クラスの中心だ。けれど以前のような、見えない壁のような断絶はもう感じない。


 俺はなんだか誇らしいような気持ちで、スクールバッグに手を伸ばす。持参したラノベを取り出そうとした、その時。

 隣で椅子を引く音がした。


「ただいまー。で、『信号待ちの三日月』の三話の話だよね! あの湖がブワッとオレンジ色になるのがさぁ——」


 たった今、一軍女子たちと話していたテンションを全く損なうことなく、滑らかにさっきの話の続きが再開された。


 ……やっぱり、佐藤は凄い。単純に、そう思った。



 その日の放課後。


 夕暮れの色に染まる駅ビル。その一角にある、やたらと広いガシャポンコーナーを進んでいた。

 半年ほど前にオープンしたここをチェックするのが、俺の学校帰りのささやかな日課だ。


 今日も端から端まで、隅々まで見て回る。


 自分でも笑えるくらい、最近は訳の分からない変なガシャポンに目が奪われるようになった。以前なら一切目を止めずに素通りしていたのに、なんとなく目がそっちに持っていかれてしまう。


 あ、この『寿司型猫戦車』とか、佐藤に見せたら大喜びしそうだな。


 そんな風に誰かの反応を想像して、変なガシャポンにばかり目をとられながらゆっくりと歩き回るのも楽しいものだ。


 ふと、目新しい台を見つけて、その前でしゃがみ込む。

 佐藤が前に好きだと言っていたクソアニメ、『魔法少女・マジカルデス・ギガ』のガシャポンだった。


 これのガシャポンが存在するのか。世も末だ。ネットのおもちゃになってるから需要はあるのだろうが、企画者の正気を疑う。


 ……佐藤は、これを知っているだろうか。


 しばらくしげしげと台を見つめた後、バッグから財布を取り出した。

 これ三百円もするのかよ。取りすぎだろ。高校生の三百円の価値を舐めるな。心の中で毒づきながらも、百円玉三枚を投入口に滑り込ませた。


 ガシャコ、と軽い音。見慣れたカプセルが転がり落ちる。

 中身は——佐藤が絶賛していた、首が180度回る作画崩壊キャラのキーホルダー。毒々しい色が目に痛い。


 欲しいやついるのか、これ。


 と遠い目をしつつも、俺の頭には一人の顔が浮かんでいた。

 ……いるな。世界中で、誰よりもこれを欲しがりそうな奴。


 カプセルを閉じ、スクールバッグの奥に、宝物でも扱うようにしまい込む。

 ガシャポンコーナーを後にする俺の足取りは、いつになく軽かった。

 明日、これを渡したら彼女はどんな顔をするだろう。

 想像するだけで、頬が緩むのを止められなかった。



「……これ。昨日回したら出たから」


 翌朝。

 登校してすぐ、俺は佐藤にカプセルを突き出した。

 いざとなるとなんだか急に気恥ずかしくて、変にぶっきらぼうになってしまった。


「ありがとう……?」


 佐藤は頭に「?」を浮かべながら、それを受け取った。

 だが、中身を確認した瞬間。彼女の目がわかりやすくキラキラと輝いた。周囲の空気まで一気に明るさが上がった気がする。


「うわー!! これ!! あっちこっちのガシャポンコーナー探しても、どこにも見つからなかったやつ!! いいの?!」


 文字通り、飛び上がって喜んでいる。なんだかバタバタしていた。子犬みたいだ。

 喜びそうだとは思ってたけど、まさかここまで喜ぶとは思わなかった。

 想像以上のリアクションに、俺は顔が熱くなるのを感じて視線を逸らした。


「本当に嬉しい! ありがとう! どこにつけよっかな!!」


 佐藤は自分の持ち物をキョロキョロと物色しながら、もうキーホルダーの透明な内袋を破っていた。


「あ、つけるんだ」


 思わずそう口に出していた。

 佐藤のスクールバッグやペンケースは意外にもシンプルで、無地のそれらには何もつけられていなかったから。てっきり、自室に飾るとかかと。


「もちろんつけるよ! せっかく阿久津くんにもらったんだし!」


 そこなんだ。

 このキャラがどうとか、希少価値がどうとかじゃない。

 まず出てくるのが俺の名前なことに、むずがゆくなるような優越感を感じた。


「ここにしようかな!」


 佐藤が選んだのはペンケースだった。

 上品な生成り色の生地。そこに、訳のわからないド派手な「異形」が鎮座する。

 最高に不釣り合いで、最高にちぐはぐ。

 それが、あまりにも佐藤らしくて、俺は声をあげて笑った。


 その日は一日、ペンケースの横で揺れる毒々しいキーホルダーに視線を奪われ続けた。ニヤけそうになる口角を抑え込むのが、これほど大変だとは思わなかった。



 その夜。

 いつものように、家族と食卓を囲んでいた。


 テレビでは、生放送の歌番組が流れている。特に見たいわけでもないが、誰もチャンネルを変えないので、そのままBGM代わりに流し見ている。俺がアニメ以外の番組を見るのは、この夕飯時くらいだ。


 知らない歌手が、今流行っているらしい知らない曲を歌っている。特に興味もないそれを、ぼんやりと眺めながら白米を口に運ぶ。

 そうだ。食べ終わったら昨日放送の深夜アニメの録画でも見ようかな。佐藤は昨日のうちにチェック済みだった。俺がまだ見ていなかったから今日は話せなかったし。


「夕飯食べ終わったらテレビ使っていい?」

「いいけど、あんたちゃんとテスト勉強してるの? 期末テスト今月だよね?」


 母がぎろりとこちらを睨んだ。

 俺はすくみ上がって、反射的に姿勢を正す。


「見た後に、確実にやります」

「……ならいいけど」


 無事回避できた。これでアニメは見られる。

 心の中で、息をついた。


 そんなどこにでもある、退屈で平和な、いつも通りの夜。

 温かい味噌汁の湯気、テレビの騒がしい音、母の小言。


 その「いつも通り」は、唐突に終わりを迎えた。


「続いては、今もっとも輝く国民的アイドル、佐藤瑠璃さんです!」


 テレビから響いた司会の声に、心臓が跳ねた。

 画面が切り替わり、そこに映しだされたのは佐藤だった。


 着ているのはもちろんいつもの学校の制服ではない。

 無数のスポットライトが交差し、乱反射する衣装が星々のように瞬く。その背景には無数の観衆が振るペンライトの海が、光の帯となって波打っている。地鳴りとなって空気を震わせる「瑠璃ちゃーん!」という無数の人々の絶叫が、電子の波となって茶の間の安っぽい食卓を激しく揺さぶり、彼女という存在が背負う熱狂の量を残酷なまでに伝達していた。


 音楽に合わせて、彼女が歌い、踊る。

 詳しいことはわからない俺にさえ、それが血の滲むような努力と才能の果てにある、圧倒的に洗練されたパフォーマンスであることくらいは理解できた。

 寸分の狂いもないステップ、指先まで意志が宿るような、しなやかな動作。


 テレビの向こうの彼女は、どこまでも、圧倒的に、誰よりも「アイドル」だった。全人類に等しく愛を分け与える「本物の偶像」。


「ああ、この子。なんか最近すごいらしいよね」


 対して興味もなさそうな母の、平坦な声が、俺の頭を一瞬で通り抜けていく。

 画面の中の彼女が、ふとこちらを見つめて笑った。


 ——息が止まった。


 その笑顔が、今日学校の隣の席で、ペンケースに三百円のキーホルダーをつけながら目を細めたときと、全く同じ輝きを放っていたからだ。


 俺は「佐藤」のことは知っている、つもりだった。でも「瑠璃ちゃん」のことは何一つ知らない。

 ……いや、それも間違いだ。「佐藤」と「瑠璃ちゃん」は別人ではない。むしろ、全く同じだ。分裂も、使い分けもされていない、「佐藤瑠璃」というただ一人。


 俺が見ていたのは、彼女が世界中に提供している「佐藤瑠璃」という膨大な光の、ほんの一筋を切り取っただけのものに過ぎなかった。

 毎日隣で教科書をめくったり、くだらないアニメの話で腹を抱えて笑ったりしている時間は、あの巨大なステージの余白でしかなかったのだ。


 俺は「佐藤瑠璃」のことなど、何一つ知らなかった。ただそれだけのことだった。


 俺が放心している間に、彼女の出番は終わった。ステージの上の彼女は、いつものあの笑顔を無数のファンへと等しく投げかけ、画面は無情なほど速やかに次のコーナーへと切り替わった。



 いつの間にか夕飯を食べ終えていたらしい。俺は気づけば自室の冷たいベッドに横たわり、白い天井をただぼんやりと見上げていた。

 狭い六畳間に、外を走る車のエンジン音が遠くから聞こえる。


 半ば癖のような動作で、無意識にスマホを手に取った。

 通知が一件。佐藤からのメッセージだった。


 送信時間を見て、背筋が凍った。

 さっきの歌番組が終わった直後。無数のファンの前でパフォーマンスを終えて舞台を降りたばかりの、その瞬間に送られたものだ。


 震える指で開いたメッセージの中に、さっきの番組の話は一文字もなかった。「疲れた」や「緊張した」みたいな言葉がないというだけの話ではない。

 ただ、今日の夕方にやり取りしていたアニメの話の続き。俺が勧めた作品の続きを、今日の夜に見ると。ただそれだけの報告と、その作品への期待だけが、絵文字と共につづられている。

 あの巨大なステージの気配など微塵も存在しない、《《いつも通り》》だけがそこにはあった。


 そんなのはおかしいだろう。あんな大勢のファンの前で命を削るように歌い、踊って、疲れないはずがない。《《いつも通り》》なはずがないのに。


 どうして彼女は、こんなにも平然と、怪物的なまでに「佐藤瑠璃」なのだろうか。


 尊敬とも恐怖ともつかない感情が、ぐるぐると出口もなく脳内を駆け巡り、これまで彼女に対して抱いてきた、名前も付けられない感情の全てが原型もなくなるほど粉々に砕け散っていく。


 夕方に送ったメッセージ。これまでに学校で交わした会話の一字一句。そのすべてが取り返しのつかない、致命的な間違いだったように思えてくる。


 そして何よりも。

 今日、彼女に渡した、あの三百円のプラスチック。

 生成り色のペンケースに揺れていた、毒々しい色の安っぽい塊。

 あれを「喜んでくれるから」と得意げに差し出した俺は、なんて無知で、滑稽で、傲慢な存在だったのだろう。

 無数のファンの愛と期待を一身に受けるあの「瑠璃ちゃん」に対して、俺はなんて場違いなゴミを押し付けてしまったのだろう。


 佐藤瑠璃は、本物のアイドルだった。


 画面に映し出される《《いつも通り》》の言葉。

 俺は一文字も返信を打つことができなかった。

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