第3話 佐藤瑠璃はクラスのアイドルではない。
翌朝。
本当に学校に行きたくなかったが、俺は遅刻ギリギリで教室のドアを開けた。
「あ、やっと阿久津くんきた! 『信号待ちの三日月』の続き、昨日最後まで見たよー!」
「え、全部?」
俺は反射的に聞き返した。昨日の朝はまだ三話までだったはずだ。残りは九話分。まともに見れば四時間以上はかかる。あの生放送の後だぞ? 何時に帰れたんだ。まさか全く寝ていないのか。
「そう全部! 本当に面白くて、続き気になっちゃってやめられなくってさ! 気づいたら全部見ちゃってた! もー寝不足!!」
彼女はそう言いつつも疲れを微塵も見せずに、いつも通りカラカラと楽しそうに笑う。昨日学校で話した時と、何も変わらない声色、そして笑顔。
冗談だろう。あの放送が終わったのは夜の十時だ。普通は疲れて、帰ったらすぐ寝る。そうじゃないのか? どんな体力、どんな精神をしているんだ。無理をしているのか。それとも、これが彼女の「日常」だとでもいうのか。
彼女は、佐藤瑠璃とは、一体何なんだ。
俺は喉の奥に何かつっかえたように、声が出せなかった。
頭の中で、昨日のテレビから溢れた「瑠璃ちゃーん!」という地鳴りにも似た絶叫が、消えない耳鳴りとなって脳裏にこびりついている。
彼女の背後、机の上にあるペンケースでは、俺があげた三百円のキーホルダーが昨日と変わらず揺れている。
彼女の持ち物の中で、そのチープなプラスチックだけが、あからさまに場違いなノイズを放っていた。
昨日の朝、俺がそれをあげた相手は「佐藤」だったはずなのに。今それを持っているのは、あの「瑠璃ちゃん」だ。
その事実に手が震え、冷や汗が止まらない。
彼女が変わったわけじゃない。彼女は何も変わっていない。変わったのは、変わってしまったのは俺だけだ。
「阿久津くん、大丈夫? 顔色悪いよ」
覗き込んでくるその様子すら、まるで映画のワンシーンのようだ。俺はその名シーンに泥を塗ることしかできない、エキストラにもなれない存在なのに。
それなのに、俺だけが勝手に距離を勘違いして、三百円のガシャポンで彼女の世界に土足で踏み込んでいた。
佐藤瑠璃は優しい。どこまでも普通の女の子だ。
佐藤瑠璃は普通の女の子で、無数のファンを魅了するアイドルで、俺の隣の席のオタク友達で。今、目の前にいて、銀河の端と端よりも遠い場所にいる。
めまいがするほどに遠くにある巨大な恒星の、ほんの一瞬の瞬きを、俺はずっと離れたこの教室から、ほんの少しの間見ていただけ。
「……何でもないよ。ちょっと寝不足なだけ」
俺は彼女と同じように、ちゃんと笑顔を作れていただろうか。
きっとできていなかっただろう。俺は彼女とは違うから。
*
授業が始まっても、地獄は続いた。
周囲の風景は霧がかかったようにぼやけ、特定の音だけがナイフのように鋭く耳に突き刺さる。
カチ。
彼女がノートを取るたびに、消しゴムをかけるたびに、例のキーホルダーが机の縁に当たって小さく音を立てる。
カチ、カチ。
その音が聞こえるたびに、氷水を流し込んだ心臓を直接握りつぶされるような感覚に襲われた。俺は持っているシャーペンを折れんばかりに強く握りしめて、ただひたすらそれに耐えていた。
視界の端に映る制服姿で黒板を見る彼女に、昨日のきらびやかな衣装の残像が重なって見えた。
休み時間のたびに彼女は話しかけようとしてくれたが、俺は拒絶するように避け続けた。
何を話していいかわからなくなったから。昨日まで、俺は彼女とどうやって話していたんだっけ。もう思い出せない。
昼休みになり、彼女がこちらを向こうとする気配を感じて、俺は弾かれたように席を立った。
「あっ……」
隣で彼女が何か言いかけ、こちらに伸ばそうとした手を所在なさげにひっこめた。俺はその表情を見ることすら怖くて、目を逸らして急いで彼女の後ろを通り過ぎる。
直後、別の女子が彼女に話しかけるのが聞こえた。
「佐藤~!! 昨日の生放送見たよ~! あの衣装めっちゃかわいかった~!!」
「え、あっ! 見てくれたんだ! ありがとう! 衣装、あれすごい重かったんだよ~」
「マジで!? 全然そんな風に見えなかった! アイドルすご~!」
教室を出ながら、俺は思う。
ああそうか。彼女との会話は、それが正解だったのか。
俺も、最初からそうしておけばよかったんだ。
結局、放課後まで一言も目は合わなかった。
*
放課後。
昨日と同じように、自室のベッドで天井を見上げる。
頭を巡るのは昨日のテレビの映像、そして今日の学校での彼女。その二つが取り留めもなく、ただぐるぐると回る。
その終わりのない連鎖を止めようと、俺は枕元のスマホを手に取って、SNSで「#佐藤瑠璃」を検索した。
数百万を超える、膨大な数のファンのアカウント。そして彼らの褒め言葉が並んでいる。それでも、有名になればなるほど、それだけでは済まないのが世の常だ。
『言うほどかわいいか?』
『さっき音外してただろww歌下手すぎwwww』
『性格悪そうな顔してるよね』
『こんなんに何百万もフォロワーいるのマジで意味わからん』
『裏表激しそう笑」
——そんなことは、断じてない。
佐藤瑠璃には表も裏も存在しない。彼女は何かを演じているわけでも、嘘をついているわけでもない。だからこそ、俺は今、こんなにも胸の奥が苦くてたまらないのだから。
裏表があるのなら、まだよかった。本当は裏で俺を見下していると思えたなら、彼女を憎んで嫌いになれたのに。
彼女はただそこにいて、笑っているだけ。
「佐藤瑠璃」はその存在が大きすぎて、見る側の自意識が反射して映っているに過ぎないんだろう。俺が「友達」だと思っていたのは、このSNSの掃き溜めと同じ、俺が彼女に投影したただの願望に過ぎなかった。
知る前には、絶対に戻れない。
この苦味は怒りでも嫌悪でもない。ましてや失恋ですらない。
世界中にいる膨大な数のファンのうちの一人が、ただ身の程を知っただけのことだ。
俺の世界の大半を占める「学校」すら、彼女の世界のほんの小さな、ごく一部でしかない。
気づいてしまったなら、それぞれのあるべき、正しい場所へと帰らなくては。
俺はSNSを閉じ、メッセージアプリを立ち上げた。
一番上の行に、彼女の名前がある。
一瞬の躊躇。それを振り切ってタップし、これまでのトーク履歴を読み返していく。
そこには、昨日までの浮かれた俺の言葉が並んでいた。
国民的アイドルに対して「今週末、何かアニメ一気見しよ」だってさ。馬鹿みてぇ。
自分が信じられないほど滑稽で、吐き気がして、目を閉じた。
これが正解だ。これが唯一、俺の平穏を守るための最適解なんだ。
自分にそう言い聞かせて、震える指で「ブロック」の文字をタップした。
その瞬間、スマホの画面から、俺の世界から彼女が消えた。
俺がただの「モブ」へと戻る。部屋が、世界のすべてが、日が陰ったように一段暗くなったようだ。
これ以上、彼女と向き合わなくていい。これ以上、惨めな自分を直視しなくていい。
そのことに、俺は皮肉なほど深い安堵を覚えて、小さく息をついた。
さよなら、俺の隣の、知らない女の子。
……そう。俺は安堵している。安堵しているんだ。
そのはずなのに。
熱に浮かされた状態から正常に冷えたはずの脳に、じわじわと氷水をかけられるような感覚が広がる。
指の先から冷たくなり、全身がガタガタと震え始めた。
俺は何から逃げた? 何を守った?
俺はそのすべてから逃げるようにスマホを放り投げ、頭から布団をかぶった。
強く目をつむり、震える両手を握り締める。
自分の内側に、修復不能な穴がぽっかりと開いたような、猛烈な喪失感。
ああ、俺は今、大事な友達を失ったんだ。
『佐藤瑠璃は、クラスのアイドルなんかではないのだから。』
そう何度自分に言い聞かせても、喉の奥の焼けるような熱さが引かない。
「『信号待ちの三日月』の続き、昨日最後まで見たよー!」
そんな彼女の声が、耳の奥で何度も反響する。
彼女はどこまでも誠実だった。アイドルとしても、クラスメイトとしても、友達としても。
ただ俺だけが、自分の矮小な自意識を守るために、彼女のその真っ直ぐな想いを、ゴミ箱に放り捨てた。
耳を塞ぎ、強く目をつむり、自分に嘘を重ねる。
臆病で卑怯な俺には、それ以外に何もできなかった。
布団の暗闇の中で、祈るように組んだ両手の震えは、いつまでも止まらなかった。




