星空の下で
「・・・」
病院から出ると、町はもう深夜を回り、人が誰も歩いていないどころか、人の気配もなくなっていた。僕は、トコトコと一人そんな寂しく静まり返った杉本市の町を歩き出す。
少し頭がくらくらした。
なんだか最近、僕はやたら血を出している気がする。愛ちゃんの家でも鼻血を大量に出してしまったし・・。
「大丈夫か俺・・」
ちょっと不安になった。
「さて、どうしようか・・」
電車ももう当然終わっていた。歩いて帰るには遠過ぎる。田舎町の悲しさ。この辺では一番大きな駅とはいえ、駅前には何もない。
一人歩く僕の頭上で星だけが輝いていた。田舎にあるのはいつも自然ばかりだった。標高の高いこの地域は星がきれいだった。
すべての生命が死んでしまったみたいに静まりかえった町を一人で歩いていると、あの一人引きこもって孤独だった頃の世界の冷たさが蘇って来る。
「愛ちゃん・・」
堪らなく愛ちゃんの声が聞きたかった。
「愛ちゃん・・」
愛ちゃんに会いたかった。
闇の中にほの緑色に光る公衆電話ボックスに入る。そして、ズシリとくる少し重い受話器を手に取ると、プッシュ式の番号を押していく。毎日電話している愛ちゃんの家への電話番号は手が勝手に動くほどに自然と頭の中にあった。
「もしもし・・」
「もしもし」
愛ちゃんの声だった。
「もしもし」
僕は、深海の深い深い絶対的な闇の中で光を貪るように愛ちゃんの声を聞く。
「もしもし、もしもし」
「もしもし、どうしたんですか?ヒロシさん」
「うん・・」
愛ちゃんの声。愛ちゃんのやわらかくて、やさしくて、かわいい声・・。愛ちゃんの声が僕の心の中に堪らなく沁み込んでくる。
「なんだか・・、なんだか・・」
愛ちゃんの声が聞きたくなったんだ・・。
「はい・・」
僕たちはまだつき合い始めたばかりの恋人のように言葉少なだった。でも、その想いは、言葉がなくてもお互いに強く誰よりも強く感じていた。
電話を切って、僕はまた一人静かな夜の町に歩き出す。
僕は一人じゃない。今は愛ちゃんがいる。愛ちゃんがいてくれる。そのことがどれだけ僕の心を支えてくれるか、どれだけ僕を勇気づけてくれるか、どれだけ僕を生きさせてくれるか、多分、誰も知らない。
「・・・」
僕は駅前近くの地下へと降りていく階段の入り口の前に立っていた。
ここを下って行ったその先――、アングラなライブハウスがあった。そこは地下にある小さな場末感満載の、穴倉みたいなライブハウス。人生真っ暗な中学時代、どす黒い絶望を背負って、今も未来も何の希望もなかったあの頃、でも、何か得体の知れないエネルギーだけはあって、僕は何かそれを満たしてくれる何か、そのエネルギーが向かう先がここにある気がして、ここに立っていた。僕はあの時と同じようにその入り口の前に立っていた。
あの時、僕は勇気を振り絞ってチケットを買い、危険な匂いのする人間たちがたむろする地下へと続く薄暗い階段を下りた。そして、分厚い防音扉を開け、このライブハウスの中に入った。
入った瞬間、内蔵をダイレクトに鷲掴みにされるような猛烈な音圧が襲う。
そこでステージに立っていたのが路郎さんだった。僕はぶっ飛んだ。路郎さんもぶっ飛んでいた。
ピエロのような厚化粧に、ど派手な女ものの着物を着て、大音量でギターをかき鳴らし、路郎さんは絶叫していた。
「世界中のすべて死ねぇ~っ」
それはまるで、僕の心の中の叫びを聞いているようだった。
「人類滅亡ぉ~」
僕はあの時、滅茶苦茶に壊れてしまうくらい完全に打ちのめされていた。今まで見たことのない新しい世界の強烈な衝撃に打ちのめされていた。
「あの時、僕は・・」
あの時、僕は・・、もう二度と元に戻ることのできない、引き返すことのできない今まで生きてきた世界とはまったく違う世界にぶっ飛んで行ったのだと思う。あの時から、僕の生きる世界は変わってしまった。いや、世界そのものが変わってしまった。あの時から、みんなと同じ世界を生きているはずの僕は一人だけ別の世界を生きていた。
「・・・」
僕は再び誰もいない静まり返った町を歩き出す。この辺では一番の都会とはいえそこは田舎町。こんな時間にやっている店などなかった。
しかし、僕はふと思い立ち、その方へと歩き出す。
そこは、そこだけ寂しい闇に寂しく浮き立つように地味に輝いていた。そこはのんべぇ横丁と呼ばれている場所だった。正式名称は知らないが、みんなそう呼んでいた。裏路地のような狭い通路の両脇に、小さなうらぶれた居酒屋が集まる場所。この地域ではあまりいい噂は聞かない場所。むしろ悪い噂の方が多いような場所だった。一応その存在は知っていたが、実際に見るのは初めてだった。
ここなら朝までやっているはずだった。僕はのんべぇ横丁の狭い路地に入って行く。僕は何かに導かれるように怪しげな小さなうらぶれた店々の間を通って奥へと入って行く。のんべぇ横丁の裏路地のさらに裏。さらにその角を曲がった先の一番奥の店。闇の中に浮き立つように立つ赤い提灯に、赤いひさしの小さな古い今にもつぶれそうな居酒屋があった。
「ここは・・」
居酒屋あかね。古びた赤いひさしにそう書かれていた。場末の朽ちかけた廃墟のような店だった。僕は、なぜか引き込まれるようにその店に入った。
ガラガラと昭和な感じの開き戸を開けると、中は小さなカウンターだけのお店だった。だが、薄暗いそのうらぶれた外観とは裏腹に意外ときれいだった。店内におずおずと入ると、カウンター内にいた小さいアフロみたいなパーマをかけた目つきの鋭いおかみさんが、僕をチラリと見た。
「いらっしゃい」
そして、タバコを吸いながら愛想もくそもなく小さく言った。場末感万歳だった。
「あんたどうしたのそれ」
「えっ」
その怪しげなおかみさんが怪しげな目で僕を見ていた。
「あっ」
僕は、自分の格好を見る。僕は、血だらけのTシャツを着ていた。
「こ、これはステージでその・・、ギターが・・」
しかし、そんな言い訳が通る状況ではない。血だらけのTシャツを着た男がいきなり店に入って来たら、警察を呼ばれても何ら不思議じゃない。というか逆に普通呼ぶ。
「ギターが頭に・・」
僕は必死に説明する。しかし、増々、おばさんの目つきは険しく異様なものを見る目になっている。それは当然だ。逆の立場だったら僕でも、そうなる。おばさんの視線がチラチラとカウンター横の電話機に向かっている。このままでは警察を呼ばれる・・。それはまずい。かなりまずい。
「お前ギターを弾くのか」
その時、カウンター席から声がした。
「えっ」
僕は声の方を見る。カウンターで男の人が一人飲んでいた。
「あっ」
僕は飛び上がるほど驚いた。
「路郎さん」
それは伝説のギタリスト路郎さんだった。最初見間違いかと思ったが、確かに路郎さんだった。
「間違いない」
それは確かにあのロック界で伝説になっていた路郎さんだった。
「・・・」
僕はあまりのことにマジで言葉を失いその場に固まっていた。




