エピローグ 真空色の下で
目を覚ますと、ユージは座敷の上で布団を敷いて横になっていた。見慣れない天井、襖の隙間から入ってくる光。
起き上がると、一瞬目眩がした。頭に手を添えて心を落ち着かせる。
視線を横に向けると、左目に眼帯をしたハヤトが規則正しく胸を上下させていた。その姿を見て、ほっと胸をなで下ろす。医者に容態を見てもらうまでは、内心びくびくしていた。もしかしたら眼球まで傷ついて、一生目が見えなくなるのではないかと心配していたからだ。
カオリの祖父である、徳治郎が大丈夫と言い張ったのだ。時間がたてば、ハヤトの目の周囲もよくなるだろう。
立ち上がると、服は浴衣に着替えさせられていた。襖を明けて廊下に出る。太陽は昇りきっており、厳しい日差しをユージに浴びさせてきた。大きく伸びをしてから、何となく左に向かって歩き出す。
しばらく進むと、道場が見えてきた。そこから一定の間隔で風を切る音が聞こえてくる。中を覗き込むと、黒髪を一本に結った少女が、竹刀を両手で持って前後に動きながら素振りをしていた。素振りをする度に汗が飛び散る。熱心な少女の姿がありありと想像できる風景だった。
彼女は素振りを終え、呼吸を整えてから、道場の奥に向かって一礼をする。そして踵を返して、ユージの元に歩いてきた。近づくと彼女は軽く目を見開く。
「ユージ君、起きて大丈夫なの?」
「カオリ先輩こそ、お腹にでかい痣でもできているんじゃないんですか?」
「残念。小さい痣だけ。そこまで強く蹴られていないのよ。公園で連れ去られたときも、薬を使われただけだから」
「ええ!? あんなに勢いよく転んでいたじゃないですか!」
「あれは私が勝手に転がっていっただけよ。あの方が逃げやすかったでしょ?」
「は、はあ……。あ、そうだ、腕の縄がほどけていたのはどうしてですか? あれびっくりしたんですけど」
「秀和さん、緩めに縛っていたのよね。おかげで簡単に抜けられたわ」
「へ?」
カオリは微笑みながらユージの横に来る。そして廊下の端に置いてあった麦茶をコップ二つに注ぎ、そのうちの一つをユージに渡してきた。それを受け取り、促されるがままに喉に流した。
冷たくて美味しい。
ようやくゆっくり息がつけたようだ。
ヒデを捕まえ損ねたユージたちは下の階に降りると、タワーに上っていた班がちょうど珪素生物たちを殲滅した後だった。誰もが疲れたような顔をしているが、特段深い傷を負ってはいなかった。
合流している最中に健介から連絡が入り、彼の弟分である青年の命も別状がないと言われた。どうやら全身に一気に麻痺が駆け廻るが、その分引くのも早い毒だったらしい。
さらにエルランからの報告によれば、国道を走っていた代議士は何事もなく首都に戻ったようだ。珪素生物が襲撃したという情報もないことから、本当に何も起こらなかったようである。局長とカオリが裏の裏をかきすぎだった、とぼやいていたが、何事もなくてほっとしているようだった。
結局、誰一人死ぬことなく、珪素生物の量だけは確実に減らして、今日を迎えることができていた。
その後、カオリの実家に移動して、徳治郎の治療を受け、たらふくご飯を食べた後に横になって今に至っている。
カオリが近くに置いてあったタブレットを手に取った。それを操作すると、一つのネットニュースを拾い上げた。
「数時間前に発生した出来事。ちょうど私たちが寝ているときの事よ」
ユージはタブレットを受け取り、タイトルを見ると、思わずきつく握りしめた。指を使って、下へスクロールさせる。
『郊外にある研究所火災
明け方、首都の郊外にある、生物関連施設の研究所から火災が発生した。
速やかに避難ができたため、幸いにも人的被害はなかった。火は素早く消し止められたため、それ以上被害が広がることは無かった。
その研究所は生物関係でも先端をいく技術を持ち合わせている場所であり、貴重な研究成果が消失してしまった可能性がある。
現在、警察は事件と事故の二つの面から、調査に乗り出している。』
ユージの視線が止まると、カオリはそのタブレットを取り上げた。
「これってまさか……」
「想像でしか判断できないけれど、秀和さんの仕業である可能性が高い。前に局長がぼやいていた、珪素生物の研究所は首都の郊外にあるって。出火部分はかなり延焼が激しかったらしい」
「あの人は、どうしてそんなことを……」
「もしかしたらずっと疑問を持ちながらも、表面上では上から言われた通りに行動していたのかもしれない。そう考えると、私に対して加減していたのも納得できる」
カオリは麦茶が入ったグラスに口を付ける。
「何が正しくて何が間違っているなんて、人それぞれ違うのよ。『正義や未来のため』にという言葉を振りかざしても、他の人にとって不利益となる出来事であれば、その人物は悪者になる。――この世界は白も黒もない。グレー色の世界なのよ」
麦茶をごくごくと呑んでいく。袴姿で汗が流れる姿は不思議と魅力的だった。
ユージは地面を見ながらぽつりぽつりと呟く。
「これからどうなるんですかね」
「秀和さんだけが珪素生物を操っていたとは言い難いから、現状としては変わらないかもしれない。せいぜい研究所の一つが壊されたことで、多少数が減る程度かしら」
「そんな……」
「ただそんなに悲観することでもないと思う。今回の件で、内部でも反対意見を持っている人がいるってわかった。つまり外側だけでなく、内側からも変えていける可能性がある。その人たちもいれば、いつかは完全に珪素生物が消える日々が来ると思うの。――そんな日を信じて、私たちは毎日を過ごしていけばいいのよ」
カオリはユージが脇に置いた、ホルスターに入っている銃を眺める。
「ユージ君、とんでもないことに巻き込んでごめんね。私の力ではもう君を日常に戻すことはできない」
「いや、カオリ先輩が謝る事じゃないですし、オレが勝手に首を突っ込んだことです……。平凡な日常なんていつまでも続くもんじゃないです。オレとしては、大変な日であっても、ハヤトやカオリ先輩とか、知り合いがいる中に身を置いた方が楽しいですよ」
ユージは視線をカオリに向けると、思ったよりも近い距離にいることに気付いた。心臓が激しく波打つ。
黒髪が汗で肌に張り付き、いつもより色っぽく見える。とても美人だった。
「カ、カオリ先輩……!」
「なに、ユージ君?」
「あ、あのですね、カオリ先輩にはかれ――」
「お、起きたか、少年少女」
ユージは体を離して、正面に視線を向ける。レイが涼しい顔をして、歩み寄っていた。
「どうした、少年。風邪でもひいたのか? 顔が赤いぞ」
「ち、違う!」
「ははは、せいぜい頑張ってくれよ。――ハヤト君も起きたか。皆、元気そうでなによりだ」
ハヤトがゆっくりとした足取りで寄ってくる。眉間にはしわが寄っていた。
「お前な、俺に寝させる気があるのなら、障子くらい閉めてこい。眩しくて起きちまっただろう」
「わ、悪かった」
「まあいいけどよ……」
溜息を吐き、レイの方に体を向ける。彼女は腕を組んで、三人の少年少女を眺めた。
「しばし休んでいなさい。大人の事情は私らが片づけるから。しばらくは、もしかしたら二度と君たちの手を借りなくても、大丈夫になるかもしれない」
レイは電話機能付きの時計に軽く視線を落とす。誰かと先ほどまで通話していたのだろうか。
「時間があるうちに勉学に励め。大人になって活躍するためには、今のうちから好き嫌いなく知識を広げておいた方がいい。それが色々と経験した私からの言葉だよ」
そしてスーツを着た女性は踵を返して、ユージたちに背を向けて歩き出した。ユージが思わず立ち上がると、彼女はちらりと後ろを見た。
「少々時期は早いがすいかを持ってきた。徳じいに渡したから、あとで食べるように。では、学生として日々頑張ってくれ」
颯爽とレイはその場から去っていった。
三人はきょとんとしていたが、彼女の姿が見えなくなると、表情を緩めた。ユージとハヤトはその場に座り込む。
「あれだと、もうオレたちのことは用なしみたいだな」
「そうか? 最前線で戦うために、もっと勉強しろってことじゃねえか? 特にユージ」
ユージは自分のことを指で示した。
「オレ?」
「休み明け、化学の小テストがある。赤点取るなよ」
ユージはその言葉を聞くなり、立ち上がった。そして顔をひきつらせて、ハヤトに近寄る。
「は、範囲どこだっけ……」
「反応速度あたりだ。お前がずっと寝ていた授業の範囲だな」
「教えてくれ! お願いだ!」
「一から教えるとか、面倒なんだが……」
ユージはハヤトの肩を揺さぶりながら、必死に懇願する。
「お願いだ、オレの人生がかかっているんだ!」
「おいおい、テストくらいで死ぬわけないだろう、馬鹿が。珪素生物を相手にするよりもよっぽど楽だ」
そっぽを向くハヤトをさらに激しく揺する。その様子をカオリは笑いながら眺めていた。
穏やかなひとときの日常がそこには映し出されていた。
日常と非日常は表裏のような関係。
だが、非日常の中であっても、天色の空を背景にして走れば、思ったよりも苦しくはないのかもしれない。
さあ、新たにできた道を駆け抜けていこう――。
了
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今後もより良いものが書けるよう、精進致します。




