第9話「また灯りました」
※第7話~第9話は『HOPEプロジェクト』の前中後編(3部作)となります。本日は後編です!
あの日以来、僕の中の「冴え」が戻ってくることはなかった。
文字は相変わらず霞んで見えたし、阿久津部長の指示書は、以前と同じ、ただの意地悪なパズルに戻っていた。頭痛は治まる気配もなく、ひどい時には、目の奥がずきずきと脈打つように痛んだ。
それでも、締切は待ってくれない。
わからない箇所は、恥も外聞もなく佐藤や一ノ瀬さんに聞いた。何度も同じ資料を読み返し、間違えては修正しての繰り返し。かつてのような、迷いのない滑らかさはどこにもなかった。ただ、気力と時間だけを、ひたすらに注ぎ込み続けた。
「無花果、大丈夫か。なんか最近、ずっと辛そうだけど」
佐藤が、心配そうに手元のコーヒーを差し出してくる。
「大丈夫、ただの寝不足だよ。それより、天笠さんへの返信、確認してくれる?」
誤魔化しながら、キーボードを叩き続けた。
一ノ瀬さんは、担当としての責任感からか、涙目になりながらもクライアントとの電話対応をこなし続けていた。三人とも、ボロボロだった。それでも、誰も投げ出さなかった。
――そして、納品予定日の前日、深夜。
部長室に行っていた一ノ瀬さんが戻ってきて、
「部長確認、終わりました!オーケーもらえました!」
「マジで……ついに……」
佐藤がぐったりと椅子の背もたれに体を預けた。
「本当にありがとうございました……私一人では、絶対に無理でした……」
一ノ瀬さんが、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、こちらを見る。
「……ようやく終わったね。お疲れ様、一ノ瀬さん、佐藤」
肩の荷が下りて、僕もその場に崩れ落ちそうになった。
頭痛は相変わらず酷かったけれど、それでも、確かな達成感だけが、疲れ果てた体の奥に温かく残っていた。
――翌日、無事に納品を終えたその夜。
「打ち上げしようぜ、打ち上げ! こういう日は飲まなきゃもったいないぜ!」
佐藤の提案で、会社近くの某チェーン店の居酒屋ののれんをくぐった。
「かんぱーい!」
「お疲れ様でした……!」
佐藤たちはビールを、僕はノンアルビールを頼み一気に仰いだ。
しばらくは、案件中の苦労話や、天笠グループの担当者の癖の強さについての愚痴で、三人とも大いに盛り上がった。焼き鳥の串が空になっていくのと同じくらいのペースで、佐藤のビールのジョッキも空になっていく。
「そういえばさ、無花果はビールいつからやめたんだよ。入社した時は飲んでたよな?」
酔っぱらった佐藤が思い出したように言った。
「あー、悪いな、めでたい席なのに飲まなくて。いつだったか、どこかの居酒屋の料理が美味しすぎて、ビールはいらないなと思っちゃってさ」
「そんなことあるのかよ、ビールはいいぞ~、なあ、一ノ瀬さん」
「佐藤さん、飲みすぎはあまりよくないですよ~」
二人とも頬が紅潮して、見てるこっちも楽しくなってくる。
「なあ」
佐藤が、串を咥えたまま、ふと思い出したように言った。
「資料出す前の部長のチェック、 あれ、珍しく一発OKだったんだよな。俺、あの後、怒涛の修正ラッシュがあると身構えてたんだけど」
「あ、そうですよね。承認もらえた嬉しさで忘れていましたが……。いつもなら赤字だらけになるのに、今回は『……いいだろう』の一言だけでした」
一ノ瀬さんも、同意するように頷く。
「まあ、内容自体はちゃんと詰めたし、そういう時もあるよ」
僕は特に気にも留めずそう答えて、残っていた焼き鳥を口に運んだ。
その時は、本当に、ただの雑談のひとつだと思っていた。
「にしても、よく三人でやり切ったよなぁ。俺、正直、一人だったら三日で心折れてたわ」
「私も……先輩たちがいなかったら、絶対無理でした」
一ノ瀬さんが、しみじみと呟く。少し酔いが回ってきたのか、頬がほんのり赤い。
「そういえば」と、一ノ瀬さんが、ふと思い出したように顔を上げた。
「お二人が入社された頃って、どんな感じだったんですか? 私、今回みたいな大きい仕事を任されたの初めてだったので、ちょっと気になって」
「あー、俺たちの頃ね」
佐藤が、少し遠い目をして、ジョッキを傾けた。
「無花果、お前さ……」
「ん?」
「入社した頃、もっとギラギラしてたよなぁ。目標とか語ってきてさ、ウザいくらい前のめりでさ」
「うわ、それ言う? 恥ずかしいからやめてよ」
「いやいや、でもさ、いつの間にか、お前、目、死んでたじゃん。俺と同じ、社畜の目。あの頃は、俺らの間に課長がいたんだよ。一ノ瀬ちゃんが入る前の話だけどさ」
「課長、ですか?」
一ノ瀬さんが、初めて聞く単語に、小さく首を傾げる。
「うん。すげぇ面倒見のいい人でさ。部長との間に、上手いこと入ってくれてたんだけどな……体調崩して、休職しちゃって」
佐藤の声のトーンが、少しだけ低くなる。
「復帰したって話は聞いたんだけどな。今は別の部署にいるみたいで、俺らとは全然会ってない。まあ、色々あったんだろうな」
「そう、なんですね……」
場の空気が、ほんの少しだけ沈んだのを感じて、僕は静かにお茶を一口すすった。
佐藤は、その空気を振り払うように、わざと明るい声を出す。
「まあ、それはそれとしてさ! 無花果の話だよ、無花果の話!」
「え?」
「お前、ここ最近、なんか……昔に戻った、っていうのとも、ちょっと違うんだよな」
佐藤は、少しだけ真面目な顔になって、こちらをじっと見た。
「うまく言えないけど……なんか、前とも違う『新しい無花果』になった感じがしてたんだよな。今日、久しぶりにその感じが薄れてる気がして、逆に心配になったわ」
――新しい、無花果。
その言葉に、心臓が小さく跳ねる。
「な、なにそれ、大袈裟だなあ」
精一杯、笑って誤魔化した。
「私も、感じてました」
隣で、一ノ瀬さんが、ぽつりと口を開いた。
「最近の無花果先輩の言葉って、なんだかすんなり心に入ってくるんです。輪郭がはっきりしているというか……ちゃんと、届く感じがして」
「一ノ瀬さんまで……」
二人とも、酔いも手伝ってか、思いのほか真剣な目で見つめてくる。
「そうかなぁ。いつも通りだけど」
笑ってごまかしながらも、内心では、冷たいものが背筋を伝っていた。
二人の言葉は、ただの気のせいや、酔った勢いの世辞ではないような気がした。
――僕の中の何かは、確かに変わっていた。そして、周囲の人も、それをはっきりと感じ取っていたのだ。
――同じ頃。
誰もいなくなった深夜のオフィスで、阿久津部長は一人、デスクに向かっていた。
画面には、すでに送信済みの、あのHOPEプロジェクトの最終資料が開かれている。
特に確認すべきことなど、もう何もないはずだった。
それでも、指は止まらず、マウスのホイールを、ゆっくりと上へ、下へと動かし続けていた。
整った項目。無駄のない配置。迷いなく並んだ優先順位。
もう何度目になるかわからない、その画面を、ただ、じっと見つめていた。
ふと我に返ったように、時計に目をやる。
深夜零時を、とうに過ぎていた。
彼は小さく舌打ちをすると、資料を閉じ――しかし、その手は、次の瞬間には、もう一度、同じファイルへとカーソルを合わせていた。
――打ち上げの帰り道。
ほろ酔いの佐藤と一ノ瀬さんとは、駅前で別れた。
「無花果先輩、佐藤先輩、今回は本当にありがとうございました。また明日から、頑張りましょうね」
まだ少し充血した目で、それでも嬉しそうに笑う一ノ瀬さんを見送りながら、小さく頷いた。
二人と別れ、一人になった夜道。
頭痛はまだ、鈍く続いている。けれど、足取りは、思っていたよりずっと軽かった。
自然と、足が、いつもの裏路地へと向いていた。
こんなに間が空いたのは、久しぶりだった。あの引き戸をくぐらない日々が、こんなに長く続いたのは、いつ以来だろう。
ガラガラと引き戸を開ける。
「あら、無花果さん。お久しぶりねぇ! ずいぶん来なかったから、心配してたのよ。何かあったの? 顔、随分疲れてるじゃない」
女将さんの明るい声、その奥にわずかな心配の色が滲んでいるのが伝わってきて、疲れ切った体に染み渡る。
「すみません、ちょっとバタバタしてて……。今日はもう食べてきちゃったので、何か軽いものだけもらえますか」
「あら、そうなの? じゃあ、卵焼きとお漬物でいい?」
「はい、それでお願いします」
カウンターの隅に目をやると、そこにはやはり、いつもと変わらない様子で、まどかが座っていた。
今日の彼女は、ミントグリーンの薄手のカーディガンを羽織っていた。襟元から覗く白いインナーには、細かい格子状の幾何学模様が織り込まれていて、視線を落とすたびに、なぜか思考がすっと澄んでいくような、不思議な柄だった。
「お久しぶりですね、無花果さん」
僕の顔を見るなり、からかうような、楽しげな光を瞳に宿して、
「バタバタしてた、とのことですが。ふぅん――打ち上げられた魚が、水を求めるがごとく、バタバタしていたんですか?」
「跳ねるだけの赤い鯉じゃないんだから」
「あら、よくご存知で」
「大きい案件を、後輩と同期と三人で、なんとか乗り切ったんだよ。もう、へとへと」
「へえ。三人で、ねえ。ハーレムでも作ってるんですか?」
「ハーレムって……同期は男だし、後輩は女の子だけどそんな目で見てないよ」
彼女は、どこか楽しげに目を細めながら、ペンをくるりと回す。
「あら、残念。でも、さぞかし……いい経験を積みましたね、無花果さん」
「なにその含みのある言い方」
「これは鯉からドラゴンへの進化も近いんじゃないですか?ずいぶんと、脳を摩耗させて帰ってきましたね。……おかえりなさい」
「進化はしないけど、ありがとう」
話がひと段落したところで、女将さんが卵焼きとお漬物の小皿を運んできてくれた。
いただきます、と手を合わせ、箸を取ろうとすると、
「無花果さん、口を開けてください、ご褒美にあーんをしてあげます」
と言うと、まどかが箸をとり、卵焼きを一口、僕の口に運んだ。
彼女の白い頬が、どこか微かに紅潮している。まるで、待ち望んだ物を目の前にした子供のような、奇妙な熱を帯びた目で僕の口元をじっと見つめていた。
「え、ちょっと待って……」
驚いて、言われるがままに口を開けた。
―ぱくり。
咀嚼した瞬間、ふっ、と。
こめかみの奥にわだかまっていた鈍い痛みが、まるで潮が引くように、静かに消えていく。
視界が、すうっとクリアになっていく感覚。壁に貼られたメニューの文字が、また、驚くほどはっきりと浮かび上がって見えた。
「……あ」
思わず、声が出た。
「どうかしました?ご褒美タイムは終わりなので、あとは自分で食べてくださいね」
僕が箸を受け取ると、彼女はすぐに本を読むことに集中していた。
気恥ずかしさを隠しながらも
「いや……なんか、頭痛が、急に楽になった気がして」
「気のせいでしょう。おかあさんの卵焼きは、いつだって美味しいだけで、それ以上でもそれ以下でもありませんよ」
しれっとした顔で、まどかがそう言う。
「あら、失礼ね。私の料理の半分は、優しさでできてるのよ」
厨房の奥から、女将さんが割って入ってきた。
「じゃあ、残りの半分は?」
「それは秘密。企業秘密」
「おかあさんまで、その言い回し好きですね」
まどかがくすくすと笑う。僕はまだ半信半疑のまま、もう一口、卵焼きを頬張った。美味い。いつも通りの、優しい味だった。
「そういえば、その同期が佐藤で、後輩が一ノ瀬さんって言うんだけど、二人には本当に助けられたんだよ。一人だったら絶対終わらなかった」
何気なくそう言うと、彼女はペンを取り、ノートに何かをさらさらと書き付けた。
覗き込んだ僕は、思わず目を丸くする。
そこには、几帳面な数式や図式に混じって、下手くそな棒人間のイラストが描かれていた。三人の小さな人影が、一人の大きな人影を、うんしょ、うんしょ、と担ぎ上げている絵だ。
「……これ、何?」
「三人の絆の記録です。美しいですね」
「いや、これ騎馬戦してるよね! 三位一体って言うより、担がれてる方が主役みたいになってるじゃないか」
「あら、鋭い。無花果ハーレムは実は部長キングダムだったというだけですよ」
まどかは満足そうに頷くと、ノートをぱたんと閉じた。
「まだそのネタを引っ張るの……」
僕はそれ以上、何も言わずに卵焼きを楽しむのだった。




