第10話「お前ら、いいチームだな」
HOPEプロジェクトが終わってから、一週間ほどが経っていた。
オフィスには、以前ほどのピリピリとした空気はなく、凪いだような、静かな一週間だった。
「一ノ瀬」
阿久津部長の声に、一ノ瀬さんの肩がびくりと跳ねた。
「は、はい……!」
おどおどと、小走りにデスクへ向かう一ノ瀬さん。僕は思わず、その背中を目で追ってしまう。
「この資料、他の案件のフォーマットにも使いたいんだが……お前、どうやってこの並びを考えたんだ?」
机の上には、以前提出したHOPEプロジェクトの最終資料が置かれていた。
「え、あ、あの……それは……」
一ノ瀬さんは、しどろもどろに言葉を探しながら、ちらりとこちらを見た。
「実は、その資料の構成は無花果先輩が……」
いつもなら、ここで「お前が主担当だろう、どうして説明できないんだ」と、雷が落ちるはずだった。
けれど、特に苛立った様子も見せず、ただ「そうか」と頷くと、こちらへ視線を向けた。
「無花果、ちょっと来い」
僕は少し戸惑いながら、部長のデスクへと向かった。
「この並び、どうやって考えたんだ?」
「え、あ……情報の重要度で、上から並べただけですけど」
「ふん。単純そうに聞こえて、実際やるのは難しいんだよな、これが」
そう言いながら、資料のページをぱらぱらとめくった。
その横顔に、以前のような刺々しさは、あまり感じられなかった。
――ふと、部長の脳裏をよぎるものがあった。
まだ入社したての、右も左も分からなかった頃。誰にも頼れず、上司に叱咤されながら、一人で必死に資料を作っていた、遠い昔の自分の姿。
あの頃の自分に、こんな風に、誰かが手を差し伸べてくれていたら。
柄にもないことを考えている自分に、部長は小さく咳払いをした。
「まあ、いい仕事だった。一ノ瀬、お前もよくこいつらに食らいついていったな。今後もこの調子で頼むぞ」
それだけ言うと、部長は再び資料に目を落とし、僕たちを解放してくれた。
「……あれ、今の」
席に戻ると、開口一番に一ノ瀬さんが、信じられないという顔で呟く。
「怒られなかった、ですよね……?」
「うん。しかも、ちゃんと褒められた」
隣のパーティションから、佐藤がひょこっと顔を出した。
「今の、部長だよな? なんか……普通に褒めてなかった?」
「うん……。今日は、なんかいつもと違った気がする」
「まぁ気のせいだろうな、あの人が優しくなるとか、太陽が西から昇るレベルだろ」
佐藤は茶化すように笑ったけれど、その声には、どこか半信半疑な響きが混じっていた。
その日の帰り、久しぶりに、心穏やかな気分で『みやこや』の引き戸を開けた。
「あら、無花果さん。今日はご機嫌ねぇ」
女将さんが、僕の顔を見てくすりと笑う。
「初めて部長に褒められたんです。地味に嬉しくて」
「あら、良かったじゃない! なになに、詳しく聞かせてよ」
女将さんが、身を乗り出すようにして興味津々な顔をする。
「いや、大したことじゃないんですけど。前に作った資料を、他の案件にも使いたいって言われて。一ノ瀬さんまで一緒に褒められて」
「あの怖い部長さんが? へえ、珍しいこともあるんだねぇ」
女将さんは、感心したように何度も頷きながら、湯呑みにお茶を注いでくれた。
カウンターの隅では、まどかがいつも通り、本を片手に座っていた。
「へえ、褒められたんですか。珍しいこともあるものですね」
「まどかさんまで、それ言う?」
「だって、本当に珍しいじゃないですか。無花果さん、褒められ慣れてなさそうな顔してますし」
「ひどくない、それ」
「事実ですよ。ほら、今も分かりやすく機嫌が良さそうな顔してますよ」
本から目を離さずに、くすりと笑うと、手元のノートに何かを書き付けた。
覗き込んだ僕は、思わず、目を丸くする。
『部長:パワハラ→更生中?(笑)』
その下には、久しぶりに見る、あの見慣れた一文もあった。
『無花果さん:味音痴改善中(笑)』
「……ちょっと、また勝手に記録してるでしょ。しかも部長まで」
「あら、見えちゃいました?」
彼女は悪びれもせずに、しれっとノートを閉じてしまう。
「無花果さんが褒められてお祝いに、今日は特別に新作を出しちゃおうかしら」
女将さんが、厨房の奥から、嬉しそうな声を上げた。
「新作、ですか?」
「そうなの。珍しく、まどかが料理のデザインに口を出してきたから、試作品を作ってみたの。旬の野菜を使った、彩りサラダ。ちょっと手が込んでるのよ」
しばらくして運ばれてきた小鉢には、彩り豊かな野菜が、やけに整然と、放射状に規則正しく並べられていた。
赤、緑、そして中央に添えられた紫キャベツの千切りが、円を描くように連なっている。
「……なんか、見てるだけで、目が離せないですね、これ」
思わずそう呟くと、まどかが、ちらりとこちらを見た。
「そしてこれが最後の仕上げです」
そう言うと、小皿の端に添えられていた液体を手に取り、紫キャベツの上に垂らした。
――瞬間、紫だったはずの千切りが、じわりと鮮やかな青に色を変えていく。
「……えっ、なにこれ」
「紫キャベツに含まれるアントシアニンという色素は、性質を変えると色も変わるんです。ちょっとした化学反応ですよ」
満足そうに、悪戯っぽく笑い、
「この料理のポイントは、赤、緑、青の野菜です。あらゆる物質を構成する素粒子の性質は、この三色で説明がつくんですよ。つまり、これを食べれば、この世のあらゆる物質を食べたことになる、と言っても過言ではありません」
「言ってることの規模、大きすぎない?」
「無花果さんは今から、宇宙を咀嚼するんです。光栄に思ってください」
「食欲が無くなることを言わないでよ。……女将さんも、どうして賛成したんですか」
「まどかのたっての希望だったし、無花果さんならきっと食べてくれると思ってね」
女将さんは、悪びれる様子もなく、にこにこと笑っている。
僕は、少し釈然としないものを感じながらも、その美しい彩りのサラダに、箸を伸ばした。
一口食べると、野菜の瑞々しさが、口いっぱいに広がる。
美味い。それだけは、確かだった。
翌日、オフィスに足を踏み入れた瞬間、小さな違和感に気づいた。
パソコンを立ち上げ、溜まっていたメールに目を通す。
――速い。
文字が、するすると頭に入ってくる。優先順位も、迷うことなく自然と浮かび上がってくる。
しばらく忘れていたはずの、あの感覚が、また戻ってきていた。
(……あの新作サラダ、まさか)
昨夜のまどかの、意味深な笑みを思い出す。
「まさか、な」
自分に言い聞かせるように呟きながらも、指先は、いつになく軽やかにキーボードの上を滑っていく。
いつもなら三十分はかかるはずの報告書を、僕は十五分足らずで仕上げてしまった。
「……なあ、無花果ぁ」
パーティションの隙間から、髪をボサボサに乱した佐藤が、すがりつくような目で顔を出した。手にはイヌが描かれたマグカップを握っている。
「お前さ、昨日定時で帰ったってマジ? タイムループにでも巻き込まれたのか?」
「普通に帰ったよ。たまたま仕事が早く片付いただけ」
「嘘だ。この阿久津班にいて定時退社なんて都市伝説だろ。……いや、でもお前、今日もなんか妙にデスクが綺麗だな。お前、まさか『あがった』のか?」
「あがった?」
「社畜としてのステージがだよ。ほら、限界を超えすぎて脳内麻薬が分泌されて、逆にキーボード叩く速度がマッハになるやつ。俺の知ってる先輩は、その状態のまま一晩で仕様書三本上げて、次の日救急車で運ばれた」
「縁起の悪いステージだな。体調はむしろ良い方だよ」
「無花果先輩、佐藤先輩、おはようございます」
一ノ瀬さんが、お茶を淹れたマグカップを両手に、こちらへやってくる。
「あ、一ノ瀬さん、おはよう」
「なんの話ですか? ステージとか聞こえましたけど」
「佐藤の謎理論だよ。気にしなくて大丈夫」
「ひどいな! ちゃんとした社畜研究の成果なんだけど」
「研究って、佐藤先輩の脳内だけの話ですよね、それ」
一ノ瀬さんが、くすりと笑いながら、やり取りに加わってくる。
こういう、何気ない朝のやり取りが、以前よりずっと自然に、心地よく感じられた。
「無花果、ちょっと」
部長に呼ばれ、僕はデスクへと向かう。
「この間の資料、他部署からも評判が良くてな。お前のフォーマット、うちの部署全体で使うことになりそうだ」
「あ、そうなんですね。ありがとうございます」
「ふん」
部長は、報告書にざっと目を通しながら、小さく頷いた。
「……お前ら、いいチームだな」
「え?」
思わず聞き返すと、はっとしたように顔を上げた。
「いや、何でもない。忘れろ」
珍しく、少し気まずそうな顔をして、部長はそそくさとデスクへ戻っていく。
残された僕は、しばらくその背中を、ぼんやりと見つめていた。
――お前ら、いいチームだな。
その一言が、なぜか、いつまでも耳の奥に残り続けていた。




