第8話「風前の灯火」
※第7話~第9話は『HOPEプロジェクト』の前中後編(3部作)となります。本日は中編です!
HOPEプロジェクトは、日を追うごとに本格化していった。
天笠グループからの追加要望、他部署との調整、深夜にまで及ぶ資料の作り直し。
三人がかりでどうにか回していたはずの案件は、気づけば生活のほとんどを飲み込んでいた。
毎晩、日付が変わる寸前までオフィスに残る日々。土曜も日曜も関係なく、皆で机にかじりついていた。
当然、『みやこや』に向かう体力すら残らずに
――僕は、あの温かい引き戸をくぐれない日々を、久々に過ごすことになった。
一日目、特に変わったことはなかった。少し寝不足なだけだと思った。
二日目、阿久津部長から回ってきた追加の指示書を開いた瞬間、こめかみの奥に、久しぶりの鈍い痛みが走った。
(……あれ)
文字が、なんだかいつもより、ぼんやりと霞んで見える。優先順位も、以前ほどはっきりと浮かび上がってこない。
(まあ、疲れてるだけだよな、うん)
自分にそう言い聞かせて、キーボードを叩き続けた。
隣のパーティションからは、いつもより少し勢いのない声で、佐藤が唸っていた。
「まじかよ……天笠さんの追加要望、また増えてる……」
机の端には、朝から数えて三本目の缶コーヒーが並んでいる。いつもなら「聞いてくれよ無花果」と絡んでくるはずの軽口も、今日はどこか力ない。
斜め前の席では、一ノ瀬さんが、せっかく綺麗に結んでいたはずの髪を、無意識に指先でいじっていた。ふと見ると、ひとつ結びの根元が、少しだけほつれ始めている。
――そうだよ、みんな、同じように疲れているんだ。
当たり前のことに、妙に安堵した。これは、大きな案件を三人で抱えているのだから、当然の疲労だ。誰にでもあることだ。
自分にそう言い聞かせながら、またキーボードに向き直った。
三日目、指が明らかに重くなった。
いつもならスッと決まるはずの文章が、上手くまとまらない。何度も打っては消し、打っては消しを繰り返す。
「無花果、大丈夫か? なんか今日、テンション低くね?」
佐藤に心配され、「ちょっと寝不足で」と、力なく笑って誤魔化した。
佐藤自身も、心なしか目の下にうっすらとクマを作り始めていたけれど、それでも彼は、いつも通りのペースでキーボードを叩き続けていた。しんどくても、ちゃんと前に進んでいる足取りだった。
一ノ瀬さんも、目を擦りながらも、必死に資料と向き合っている。疲れてはいるけれど、その疲れ方は、ちゃんと「頑張っている人間」の疲れ方だった。
そしてさらに数日後。
阿久津部長の書いた、あの相変わらず矛盾だらけの指示書を前に、久しぶりに――本当に久しぶりに、頭を抱えていた。
「……何だっけ、これ。主語、どこにかかってるんだ……」
眉間に皺を寄せながら、同じ行を何度も読み返す。ページ全体が、ただの黒い染みの羅列のようにしか見えない。
こめかみの痛みは、もう鈍いものではなく、はっきりとした頭痛になっていた。
視界の端が、心なしかチカチカする。
周りを見渡せば、佐藤も一ノ瀬さんも、確かに疲弊しきっていた。目の下のクマ、乱れた髪、覇気のない声。誰が見ても、激務にやられた人間の顔だ。
けれど、僕のこれは。
積み重なった疲れとは、何かが根本的に違う気がした。まるで、ずっと灯っていたはずの明かりが、誰かにコンセントを抜かれたかのように、唐突に消えていく感覚。
(変だな。ここ最近、ずっと調子良かったのに……)
焦りが胸の奥でじわりと広がっていく。
(やっぱり、これまでの「冴え」は、一時的なものだったのかな。土日にしっかり休んだから、たまたま調子が良かっただけで――これまで通りの自分に戻っただけだ)
自分にそう言い聞かせながらも、指先の重さは、日に日に増していくばかりだった。
「先輩、大丈夫ですか……? なんか、顔色悪いです。私の仕事のせいで、ごめんなさい……」
自分だって疲労に押しつぶされそうなはずの一ノ瀬さんが、それでも心配そうに顔を覗き込んでくる。
「大丈夫、大丈夫。一ノ瀬さんが謝ることじゃないよ。悪いのは無茶ぶりをした部長だし、僕もちょっと詰め込みすぎただけだよ」
精一杯、いつも通りの笑顔を作ってみせる。
けれど内心では、誰にも言えない不安が、静かに胸を蝕んでいた。
――このまま、あの「普通の自分」に戻ってしまうんだろうか。
目をぎゅっと瞑ると、なぜだか『みやこや』の2人の顔が浮かんだ。
そういえば最近、行けてないな――
そんな思いを頭の隅に追いやり、再び目を開いて、キーボードに向き直った。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
【お知らせ】
本作は全25話で完結いたします。
「毎日21:10」に1話ずつ更新していき、9/4(金)に完結となります。
続きが気になった方は、ぜひブックマーク登録をして、楽しみにお待ちしてください!




