第7話「灯りをともす」
その日の朝礼で、阿久津部長が放った一言に、フロア中の空気がピンと張り詰めた。
「今期の目玉案件、『HOPEプロジェクト』のメイン担当を、一ノ瀬に任せる」
一瞬、時が止まったかのような静寂が流れた。
HOPEプロジェクトといえば、社内でも指折りの重要クライアントである天笠グループが絡む、規模も納期もシビアな大型案件だ。普段なら中堅以上のベテランが担当するようなポジションを、入社して数年の一ノ瀬さんにいきなり丸投げするなんて
――誰がどう見ても、無茶振りにもほどがある。
「え、あ、私、ですか……」
一ノ瀬さんの声が、明らかに震えていた。丸い瞳が、助けを求めるように泳ぐ。
「何だ、不満か? 俺が若いときは、これぐらい当たり前にこなしていたんだ。せっかくのチャンスを断るのか?」
阿久津部長はそれだけ言うと、分厚い資料の束を一ノ瀬さんのデスクに放るように置いて、さっさと自分の席へ戻っていった。残された一ノ瀬さんは、その資料の分厚さに、文字通り顔面蒼白になっていた。
「……一ノ瀬さん」
僕が声をかけると、彼女はビクッと肩を震わせてこちらを見た。目の奥に、涙の膜がうっすらと張っている。
「無花果先輩……。私、こんな大きな案件、任されたことなくて……。今の仕事もいっぱいいっぱいなのに、これ以上なんて、絶対に無理です……」
消え入りそうな声だった。いつもなら真面目に、一人で抱え込んで、パンクするまで頑張ってしまうタイプの子だ。今回はその「抱え込む」対象が、あまりにも大きすぎる。僕は少し考えて、それから、できるだけ軽い調子で言った。
「一人でやろうとするから、無理なんだよ」
「え……?」
「僕も手伝う。佐藤も巻き込もう。三人でやればなんとかなるって」
自分でも、ちょっと驚くくらい、すんなりと言葉が出た。いつもの僕なら、ほんの少し躊躇う瞬間があったはずだ。でも今は、なぜか妙に頭が軽くて、「まあ、なんとかなるだろう」という根拠のない自信だけが、すとんと胸に収まっていた。
「で、でも、先輩も仕事を抱えてますよね……? 私のために、そこまでしてもらうわけには……」
「いいから。それに、一ノ瀬さんが倒れちゃう方が、僕は困っちゃうよ」
なるべく気負わせないように、軽く笑ってみせる。一ノ瀬さんは、しばらく僕の顔をじっと見つめていたけれど、やがて、ぐしゃっと顔を歪めて、小さく頷いた。
「……ありがとうございます、無花果先輩」
「なになに、なんの話? 俺の名前が聞こえたけど」
パーティションの隙間から、ひょっこりと佐藤が顔を出す。
「一ノ瀬さんがHOPEの担当になったんだって。三人でやろうと思って」
「はぁ!? あの化け物案件を!? 部長、正気か……」
佐藤は露骨に嫌そうな顔をしたけれど、それでも
「まあ、無花果がやるって言うなら、仕方ねえな」
とぼやきながら、椅子を転がして一ノ瀬さんのデスクの方へと寄せてきた。
「ほら、資料寄越せ。俺、こういう泥臭い作業だけは得意なんだよ」
「佐藤先輩……」
「お前が謝るとこじゃないだろ。ほら、無花果、役割分担決めるぞ」
こうして、僕たち三人による、HOPEプロジェクトへの挑戦が、静かに幕を開けた。
HOPEプロジェクトの資料は、想像以上に厄介だった。
天笠グループ側の要望は二転三転し、過去のやり取りの履歴もあちこちに散らばっていて、まず「今、何が最新の指示なのか」を把握するだけで一苦労だった。
「うわ、これ……メールとチャットと、口頭指示がバラバラに来てるじゃん。誰だよこの案件仕切ってたの」
佐藤がノートPCの画面を睨みながら、頭を抱える。
「多分、部長が最初に窓口をやってたはずです……。でも、ちゃんと引き継ぎされてなくて」
一ノ瀬さんが、申し訳なさそうに肩をすくめた。
「じゃあ、まずは情報を一箇所にまとめよう。一ノ瀬さんはクライアントとのメールを時系列で整理して。佐藤は口頭で聞いた指示を全部書き出して」
「無花果は?」
「僕は、それを見ながら、矛盾点と抜け漏れを洗い出すよ」
自分で言っておいて、少し不思議な気持ちになる。
いつもなら、この手の「情報がぐちゃぐちゃに散らばった状態」を見ただけで、胃の奥がキュッと縮こまるはずだった。
けれど今は、その散らばった情報の一つ一つが、まるでパズルのピースのように、収まるべき場所を静かに主張しているように見えた。
三人でそれぞれの作業を進め、夕方には、ひとまず「今、何が問題で、何を優先すべきか」が一枚の資料にまとまっていた。
「……すご。もうこんなに整理できたのか」
佐藤が画面を覗き込んで、目を丸くする。
「無花果先輩の資料、本当にわかりやすいです……。今までの時系列が、初めてちゃんと理解できました」
一ノ瀬さんが、少し涙ぐみながら言った。
「大袈裟だよ。まだこれからが本番なんだから」
そんな三人のやり取りを、少し離れたデスクから、コツコツと苛立たしげな足音の主が、ちらりと一瞥していた。
「……何をだらだらつるんでるんだ」
阿久津部長が、通りすがりに舌打ちする。
「俺が若い頃は、こんな案件、誰の手も借りずに一人でやり切ったもんだがな。甘い時代になったもんだ」
嫌味を言い残して立ち去ろうとした、その一瞬。
部長の視線が、僕のノートPCの画面に映る資料に、コツンと引っかかった。
整理された項目、無駄のない配置、迷いなく並んだ優先順位。
ほんの一秒にも満たない間、部長の目が、確かにそこに吸い寄せられていた。
「……ふん」
けれど、それだけだった。
部長はすぐに視線を引き剥がすように顔をしかめると、忌々しげに舌打ちを残して、自分のデスクへと戻っていった。
僕たちの誰も、その一瞬の視線には気づかないまま、作業を続けていた。
こんな重い案件を抱えた初日にしては、僕たちは驚くほど早く仕事を切り上げることができた。
「今日はありがとな、無花果。お前がいなかったら、俺、今頃発狂してたわ」
「大袈裟だなあ。まだ始まったばかりだよ」
「先輩、今日は本当にありがとうございました」
二人にそれぞれ礼を言われながら、僕は少しだけ気恥ずかしくなって、頭をかいた。
オフィスを出て、駅までの道を三人で並んで歩く。
こんな風に、誰かと一緒に仕事終わりの道を歩くのは、いつぶりだろう。
いつもなら一人、ふらふらと『みやこや』を目指す夜道。けれど今日は少しだけ、賑やかで、温かい気持ちになりながら『みやこや』に向かうのだった。
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