第6話「省エネですよ」
裏路地へと足を踏み入れ、ガラガラ、と心地よい音を立てて引き戸を開ける。
心地良いお出汁の匂いと、常連客たちの穏やかな話し声。
――と、のれんをくぐった瞬間、いつもと違う妙なクリアさに、ぱちりとまばたきをした。
「あら、無花果さん。いらっしゃい、今日はずいぶん早いねぇ!」
女将さんが割烹着の袖をまくりながら、嬉しそうに声をかけてくれる。
「こんばんは、女将さん。……なんだか今日、お店が少し明るいですか?」
「あら、気づいた? 土日の休みに、電気屋に入ってもらって、古かった水銀灯を全部LEDに変えたんだよ。ほら、省エネだとかでお上からも色々言われるしねぇ。明るすぎて目がチカチカしちゃうかしら?」
「いえ、むしろ……」
いつもより輪郭がはっきりと見える。
白熱灯のような、だけどどこか冷徹で、影の境界線を鋭く切り落とすような不思議な光。なのに、目への刺激は驚くほど優しく、なぜか心がすうっと落ち着くような、奇妙な照明だった。
「すごく、見やすくて落ち着く光だと思います」
「そう? よかったわ。今日も生姜焼き定食にする?」
「う〜ん、今日はサバの味噌煮定食でお願いします」
「あら珍しい、空いてる席に座って待っててねぇ」
カウンターの隅に目をやると、そこにはやはり、あの少女が座っていた。
今日のまどかさんは、大きな丸眼鏡を鼻先にちょこんと乗せ、分厚い専門書を片手に、これまた奇妙な「幾何学模様が連続する青いバンダナ」をテーブルの上に広げていた。
僕が隣の席に腰を下ろすと、彼女は本から視線を上げず、ただ人差し指をすっと立てて言った。
「おかえりなさい、無花果さん。月曜日からずいぶん早いご帰還ですね。ついに、ブラック企業から脱走したんですか?」
「脱走って……ちゃんと働いてきたよ。というか、まどかさん、その眼鏡は何?」
「これはブルーライトと、世間の荒波に揉まれたサラリーマンから発せられる負のオーラをカットする眼鏡です。今、非常にデリケートな論文を読んでいるので、無花果さんから放出される負のオーラから、私の繊細な脳細胞を守るために必要なんです」
「そんな強力なバリア機能はないと思うよ、その眼鏡。ただの伊達メガネでしょ」
「ふふ。バレましたか」
彼女が手にする文庫本の帯には、デカデカと『金なき子〜路上のソウルシンガー〜』と書かれている。デリケートとは一体。というか、あれ、昔流行ったドラマの原作だよね……
彼女は本を閉じ、ニヤリと笑いながら、しれっと眼鏡を指先で押し上げた。
「ですが仕事終わりにしては、目が生き生きしていますね。少しは脳を休ませることができたようで何よりです」
「おかげさまでね。そうだ、今日はなぜか仕事がやけに捗ったんだよ。いつもなら頭痛がする上司の指示書が、スッキリ見えてさ。まあ、休日のリフレッシュ効果かな」
そう言って、僕はふと、カウンターの壁に目をやった。
そこには、先週のあの奇妙なお品書きがそのまま貼ってあって―
「……あれ?」
思わず、まじまじと壁に貼られたメニューを見つめてしまう。
先週はいくら目を凝らしても「変な文字」にしか見えなかったはずなのに。
新しくなったLEDの光に照らされた壁に貼られた短冊のメニューが、なぜか今は、『生姜焼き:六五〇円』『サバの味噌煮:六〇〇円』と、整った手書きの文字が浮かび上がるように見えた。
「このお店のメニュー、書き直した? なんだか、前よりすごく綺麗っていうか……文字がすんなり頭に入ってくる気がするんだけど」
「あれ、今更気づいたんですか? 書いた次の日には、おかあさんから『普通の人に読める言語にして』と言われましたので、文字体裁と余白のバランスを整えてみたんです」
「当たり前でしょ」
厨房の奥から、おかあさんが呆れたように首を振って割って入ってきた。
「まどかが書いてくれたやつ、なんて言ったっけ? 『サンスクリット第七言語』? 高尚な言語だか何だか知らないけど、読める人が少なくて、来る人来る人に聞かれちゃったんだから。読めなきゃ意味ないのよ、メニューは」
「あれは、最も宇宙の真理に近く、選ばれしものにしか読めない言語なのですが」
まどかは不満そうに、小さく唇を尖らせる。
「いや、居酒屋に宇宙の真理は求めてないからね。……でも、今のこれ、本当に不思議なほど文字の配置が最適化されてるっていうか。無駄な余白やノイズが一切なくて、めちゃくちゃ綺麗で見やすいな」
僕が感心していると、まどかは口元にうっすらと愉悦を孕んだ笑みを浮かべ、本に視線を戻して気のない様子でページをめくった。
「へえ。ブラック企業に漬け込まれた脳細胞がたった二日でそこまで回復するとは、人間も案外、頑丈なシステムでできているのですね。視界の解像度まで上がってしまったようですし」
「……なんか、引っかかる言い方だね」
「褒め言葉ですよ。無花果さんが使い物にならなくなったら、誰が私の暇潰しの相手をしてくれるんですか」
「僕はおもちゃじゃないんだけど」
「そうですね、おもちゃに失礼でした。おかあさん、無花果さんのサバの味噌煮、まだですか?」
「今やってるわよ、急かさないの!」
厨房からの女将さんの声をバックに、僕は運ばれてきた熱々のお茶をすする。
隣でまどかは、再び本を開き、僕をからかうタイミングを虎視眈々と狙うように、眼鏡の奥の瞳を悪戯っぽく細めていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
【お知らせ】
本作は全25話で完結いたします。
8/17より「毎日21:10」に1話ずつ更新していきますので、続きが気になった方は、ぜひブックマーク登録をして、楽しみにお待ちしてください!




