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第5話「わずかな変化」

 土曜日と日曜日。いつもなら睡眠負債の取立てから逃げるように眠り、気がつけばサザエさん症候群の洗礼を受けるはずなのに。

 この二日間に限っては、僕の生活リズムは奇妙なほど規則正しいものだった。

 朝はいつも通りの時間にすっきりと目が覚め、1日三食の自炊をし、部屋の掃除から洗濯、果てはトイレ掃除まで終わらせて夜は穏やかに眠る。まるで、出来のいい健康プログラムでもインストールされたかのような、極めて人間らしい健やかな週末を過ごした。

 

 最近なんだか本当に調子がいいなと、逆に不安な気持ちにさえなった。

 そして、非情にも月曜日の朝はやってきた。


「無花果先輩……!」

 出社するなり、デスクで僕を待ち構えていたのは、後輩の一ノ瀬さんだった。

 土日にきっちり休めたおかげか、先週の悲惨な隈はすっきりと消えている。ゆるくウェーブのかかったブラウンの髪も、今日はきれいにひとつに結ばれていて、なんだか全体的にツヤツヤと健康そうだ。よかった、後輩がデスクの肥やしにならなくて。

「これ、先週のお礼です。本当に助かりました……! おかげさまで、この土日は嘘みたいにぐっすり眠れました」

「大袈裟だなあ。全然大丈夫だよ。今週も無理せず頑張ろうね」

 両手で差し出された、少しお高めのドリップコーヒーを受け取って苦笑していると、隣のパーティションから、ボサボサ頭の佐藤が「ずるいぞ一ノ瀬ちゃん」と顔を半分だけ覗かせた。

「俺だって2人のタスクを心の中で応援してたのにさぁ、あれ、俺の分のコーヒーは?」

「佐藤先輩は、自分で自販機の缶コーヒーを買ってください。……あ、そろそろ仕事の時間ですね。無花果先輩、本当にありがとうございました!」

「おい、格差社会がエグいぞ。俺の精神的エールは、そのお高いドリップコーヒー一杯分の価値もないのか?」

「ないよ、佐藤。君は応援じゃなくて、ただデータを押し付けただけじゃない。ほら、早く仕事しなよ」

「ひ、ひどい言われようだ……。へーい」

 そんな他愛のない、いつもの月曜日のオフィス。

 しかし、その平穏を切り裂くように、コツコツと嫌な足音が近づいてきた。

「おい、無花果」

 ネクタイを少し緩めた阿久津部長が、分厚いファイルを僕のデスクにドサリと置いた。

「今週の新規案件の構成案だ。俺の指示書通りに直しておけ。読解力不足でまた前みたいな矛盾を出さないようにな。わかったか?」

「……承知いたしました」

 出た。阿久津部長名物、わざと主語や述語をねじれさせた『トラップ仕様の指示書』。

 いつもならこれを開いた瞬間、脳の奥がズキリと痛み、読解のために何時間も脳のメモリを消費する羽目になるのだが――。


 ファイルを開いた、その瞬間だった。

「……ん?」

 妙な感覚が、視界を走った。

 ページの左上に並ぶ、乱雑なテキストデータ。

 いつもなら「この主語はどこにかかってるんだ……?」と、眉間にシワを寄せて三回は読み直さなければ頭に入ってこない文章が、不思議と、スッと一枚の絵のように頭に入ってきた。

 

 余計なねじれに脳が引っかかることなく、必要な部分だけが綺麗に整理されて頭に染み込んでいくような感覚だ。

 なんだろう、これ。

 土日にしっかりと休んで、脳の疲れがすっかり取れたからだろうか。

 

(……いつもより、ちょっとだけ頭が軽い気がする。よし、このまま一気に片付けちゃおう)

 キーボードを叩く指先が、ほんの少しだけ軽快に動く。

 劇的な変化ではない。ただ、いつもなら状態異常にでもかかったように、HPを削られながら進めるはずが、今日は迷わず次のキーへ指が伸びる。そんな地味で、だけど確かな効率の良さが、僕の作業を静かに後押ししてくれていた。


「……よし、これで終わり、かな」

 ふと時計に目をやると、長針と短針は、十九時を少し回ったところを指していた。

 いつもならようやく、指示書の解読が終わる時間だ。

「……あれ?」

 隣のパーティションから、佐藤が缶コーヒーを片手に、少し驚いたような顔を覗かせた。

「おい、無花果。お前、もうそのファイルを片付けたのか? 今日はやけに手際がいいじゃん」

「え? ああ、うん。なんか、今日は仕事のコツを掴んだっていうか、頭がすっきりしててさ。佐藤も早く片付けなよ」

「おいおい、そんな簡単に言わないでくれよ。俺の頭はまだ日曜モードなんだよ。サザエさんは終わってないんだよ」

 佐藤は冗談めかして肩をすくめたけれど、その表情には、少しだけ羨ましそうな色が混ざっている気がした。

「無花果先輩、お疲れ様です!」

 一ノ瀬さんが、荷物をまとめる僕に向かって、パッと明るい笑顔で声をかけてくれた。

「お先に。一ノ瀬さんは大丈夫そう?何かあれば手伝うよ」

「まだ大丈夫です! 先輩を見習って、私も頑張って終わらせます!」

「無理だけはしちゃ駄目だよ、じゃあ、お先に失礼します」

 オフィスの自動ドアをくぐると、まだ宵の口の、ぬるい夜風が頬を撫でた。

 いつもなら疲労困憊で重たい足をひきずって歩く駅までの道。けれど今の僕は、不思議なほど足取りが軽い。

 やっぱり、週末にしっかり休んだ効果は絶大だな。僕もまだまだ、健康的な社会人としてやっていけそうだ。

 

 そんなちょっとした自己満足を胸に、僕は『みやこや』に向かうのであった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます!

【お知らせ】

本作は全25話で完結いたします。

8/17より「毎日21:10」に1話ずつ更新していきますので、続きが気になった方は、ぜひブックマーク登録をして、楽しみにお待ちしてください!

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