第4話「次回のご来店をお待ちしております」
週明けの月曜日から、自分の仕事はなぜか普段よりスムーズに片付き続けていた。 その調子の良さは疲れとともに徐々に衰えていったが、最初の貯金もあり、いよいよ花の金曜日
――数年ぶりの定時退社ができるかもしれないと、わずかな期待を胸に、荷物をまとめかけた、その時だった。
「……なあ、無花果ぅ」
パーティションの隙間から、髪をボサボサに乱した同期の佐藤が、すがりつくような目で顔を出した。手にはイヌが描かれたマグカップを握っている。
「お前さ、最近調子良さそうじゃん。……ちょっと助けてくれよ。他部署から回ってきたデータなんだけど、文字の羅列がエグくてゲシュタルト崩壊を起こしそうなんだ」
「……また無茶振りされたのか」
「頼む! 今日中にクロスチェックしないといけないんだ!」
差し出された佐藤のノートPCの画面には、数字と文字がびっしりと詰まった、悪意すら感じる乱雑な表計算データがあった。
「……わかったよ。データを半分送れ。一緒にチェックするから」
「無花果、お前神かよ……!」
佐藤のデータを引き受けて作業を始めた背後で、今度は小さく鼻をすする音が聞こえた。
振り返ると、入社して数年の後輩である一ノ瀬が、キーボードの前で完全にフリーズしていた。
本来なら上品な仕立てのブラウスがよく似合う綺麗な子なのだろうけれど、連日の残業のせいで、結ばれていた髪はほつれ、デスクの上に阿久津部長から押し付けられたとおぼしき殴り書きの構成案を前に、白くて細い肩を小さく震わせてパニくっている。
「どうしたの、一ノ瀬さん」
「あ、無花果先輩……っ。あの、阿久津部長に『俺の言った通りに修正しておけ』って言われたんですけど……指示が矛盾してて、どう直せばいいのか全然分からなくて……」
真面目すぎるがゆえに、上司の理不尽な言葉を正面から受け止めて、脳がパンクしてしまったようだ。
「あー……部長の指示、よく矛盾するからね。こっちが一息ついたら、指示書の解読は僕がするから、一ノ瀬さんはそっちの単純なデータ入力を進めてもらえる?」
「でも、先輩の仕事が……」
「だいじょうぶだよ。一緒に終わらせて、早く帰ろう」
結局、僕は二人を手伝うことになった。
コツコツと革靴の音を響かせてやってきた阿久津部長に「おい無花果、まだ終わらんのか。後輩の指導もろくにできんのか」と嫌味を言われ、「すみません、今急ピッチで進めていますから」と平謝りしながら、ひたすらキーボードを叩き続ける。
気がつけばオフィスはすっかり静まり返り、時計の針は夜の深い時間を指していた。
「ありがとうございました、無花果先輩……!」
一ノ瀬さんに涙目で何度も頭を下げられ、佐藤からはコーヒーを奢られ、すっかりぼろ雑巾のようにクタクタになって会社を出る。
肩を回しながら、僕の頭に浮かんだのは、あの『みやこや』の温かい灯りだった。
(今からでも、まだやってるかな……)
ガラガラと引き戸を開けると、温かい出汁と醤油の香りが僕を包み込んだ。
「あら、無花果さん、今日はずいぶん遅いわねぇ」
真夜中にもかかわらず、嫌な顔一つせず迎え入れてくれて、疲労が和らいだ気がした。
いつもの生姜焼きを注文した後に、店内を見るとそこにはやはり、まどかさんがいた。
今日の彼女が着ているのは、白とネイビーの、幾何学模様が整然と並んだモダンな開襟シャツ。
エッシャーの騙し絵のように、正方形と三角形が規則正しく連続するそのデザインは、彼女のスマートな雰囲気を引き立て、どこか知的な雰囲気を漂わせていた。
「お疲れ様です、無花果さん。今日は随分と遅いお帰りですね。何かあったのですか?」
まどかさんが本から目を離し、小首を傾げる。
「手のかかる同僚と、泣きそうな後輩をちょっと手伝っててね。……神凪さんは、まだ起きてて大丈夫なの?」
僕が努めてビジネスライクに尋ねると、彼女は罠にかかった獲物を見るような眼をこちらに向けて……。
「おかあさん、無花果さんが呼んでいるよ」
「え、女将さんに聞いたわけじゃないんだけど……」
するとお盆を持った女将さんが「待ってました」と言わんばかりに、にやにやと顔を覗かせてきた。
「あらあら無花果さん、うちは2人とも『神凪』だよ。急に名字で呼ばれたら、おばさん、自分が口説かれてるのかと思って勘違いしちゃうじゃない。どちらか分かるように、名前で呼んでくれないとねぇ」
大人の色気と悪戯心をまぜこぜにした発言に、僕は慌てて目をそらした。二十七歳の独身男が、年齢不詳の美人に勝てるはずがない
「じゃあ、まどかさんはまだ起きてて大丈夫なの?」
降伏して名前で呼び直すと、彼女はいつもの冷やりとした硝子細工のような瞳で、けれどどこか満足そうに僕を見た。
「ショートスリーパーなので。私の辞書に『睡眠』という言葉はありません」
「ナポレオンじゃないんだから、若いんですからちゃんと眠ってくださいね」
まどかさんは少し笑って、本に目を落とした――本のタイトルは『YourTuberへの第一歩』――うん、見なかったことにしよう。
女将さんが運んできてくれた、熱々の生姜焼き定食をハフハフと頬張る。じっくり味の染みたお肉が体に沁み渡っていく。
ふと、最近からかわれっぱなしだったことを思い出し、僕は少し意地悪く、小さな反撃のつもりで尋ねてみた。
「そういえば、まどかさんは……大学で、友達とかできました?」
彼女は本を持つ手を止めてほんの少しだけ頬を朱に染め、ふいっとそっぽを向く。
「……。無花果さん、私をそこらの研究室に籠りがちな寂しいぼっち大学院生と一緒にしないでください。私にだって、その……ビジネスパートナー的な、お互いのリソースを補完し合える知人はいます」
「ビジネスパートナー?」
僕は箸を止めた。
「ええ。声質と声帯のポテンシャルだけはノーベル賞級なのに、吐き出す言語センスが絶望的に壊滅している、ちょっと残念なコミ障ミュージシャン志望が同じ講義にいまして」
まどかさんはため息を吐きながらも、その瞳の奥にはどこか楽しげな光を宿している。
「あまりに可哀想なので、歌詞を書いてあげているんです。彼女の歌声自体はとても心地が良いものなので」
「歌詞を? まどかさんが?」
「ええ。私の歌詞と、彼女の歌声が交われば……ふふ。まあ、無花果さんにはまだちょっと難しいお話ですね」
まどかさんは口元に小さく、いかにも悪巧みでも思案しているかのような笑みを浮かべた。相変わらず、何を考えているのかわからない子だ。
「ごちそうさまでした」
お腹も心も満たされ、僕は立ち上がってお金を払う。
「それでは、また。明日からお仕事頑張ってくださいね」
別れ際、まどかさんがさらりと口にした言葉が、引き戸を開けた夜の静寂に溶けていく。
ガラガラと引き戸を閉めた直後、明日は休日だったことを思い出して慌てて引き戸を少しだけ開け直した。
「あの、まどかさん」
「なんですか? 忘れ物ですか、無花果さん」
「いえ。明日からも仕事頑張ってと言われましたけど……明日は土曜日なので、僕、休みです」
ほんの少しだけ、勝ち誇った顔をしてみせた。
すると、まどかさんは表情ひとつ変えずに本から僕へと視線を移し、ふっと口元に不敵な笑みを浮かべた。
「……ふふ。バレましたか」
悪びれる様子もなく、彼女はあっさりとそう言った。
「てっきり、無花果さんレベルの社畜になると、土曜日も当然のように出勤されているものかと。私の見立てが少し高すぎたようですね」
「そんな不名誉なプロにはなりたくないよ。普通に休み」
「それは失礼しました。では、明日は存分にそのポンコツな脳細胞を休ませてあげてください。――ああ、それと」
まどかさんは、僕が手にする引き戸のガラス部分を、ペン先でコツコツと指し示した。
「そこの貼り紙にも書いてありますが、明日から二日間、この店は連休です。残念ながら、次に私の顔を拝めるのは休み明けですね」
あ、と見ると、確かに扉の隅に『臨時休業』の文字がある。
「では、よい休日を」
まどかさんはひらひらと片手を振って、再び本に目を落とした。
曜日を間違えた側のはずなのに、なぜかこちらが哀れみの目で見られ、おまけに次の約束(?)までお預けを食らった形だ。やっぱりこの子には敵わないなと苦笑しながら、僕は今度こそ引き戸を閉めた。
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