第3話「レモンの味がしたので」
――ガラガラ、と引き戸を開けると、いつもとは違う熱気と賑やかな音が僕を迎えた。
まだ二十時半。店内は仕事帰りのサラリーマンたちでほぼ満席である。
いつもと違う活気に少し圧倒されながら空いている席を探すと、カウンターの隅に、神凪さんの後ろ姿が見えた。
賑やかな店内から、そこだけが切り取られたかのように静かだった。
周囲の喧騒など一切耳に入っていないかのように、頬杖をつきながらカウンターに広げた分厚い専門書を片手でめくっていた。その横顔は相変わらず、どこか現実味のない硝子細工のように冷やりとしている。
ふと、彼女がこちらを向いた。
僕と目が合うと、驚く風でもなく、ただ「想定通り」と言わんばかりに薄く唇の端を上げ、自分の隣の空席を、トントン、と指先で軽く叩いてしれっと手招きした。
「あら、無花果さん。ずいぶん早いのねぇ、いらっしゃい!」
厨房から女将さんが嬉しそうに声をかけてくれる。
「こんばんは。今日は、なぜか仕事が早く片付きまして……」
「ふふ、いいことじゃない。はい、いつものでいい?」
「あ、はい。お願いします」
僕は促されるまま、彼女の隣の席に腰を下ろした。手元に広げられた専門書から、ふわりと昨日とは違う、微かなインクの匂いが漂ってくる。
彼女の雰囲気は、昨日からガラリと違っており、無造作だった長い黒髪は、頭の後ろできっちりとタイトなお団子にまとめられて、すっきりとしたうなじとフェイスラインが強調されている。
着ているのも、あの純白のワンピースではなく、細い黒と白のボーダーが規則正しく並んだカットソーだった。
「お早い帰還ですね、無花果さん」
神凪さんが、悪戯っぽく目を細めて言った。
「あ、はい。自分でも驚いてて。いつもなら、まだオフィスでキーボードを叩いてる時間なんですけど、今日はなぜか、視界がクリアというか、タイピングが冴え渡っていて」
「知ってます。そうなると思っていましたから」
「えっ」
思わず聞き返すと、彼女はカウンターに両肘をついて、僕の顔を覗き込んできた。
「昨日の私の実験、効果絶大だったみたいですね。無花果さん、本当に私の嘘に引っかかって、入っていないレモンの味を探してましたよね」
「……まだその話します? 結構恥ずかしかったんですけど」
「ふふ、そうやって素直に騙されて脳を刺激されたから、今日はやる気に満ち溢れちゃったんじゃないですか? あるいは、私に会いたくて急いで仕事を終わらせたか、どちらかですね」
「絶対前者じゃないし、後者に関しても認めたくないです」
彼女はニヤリと不敵に笑った。
認知科学を学んでいるからなのか、ただ人をからかうのが好きなだけなのか。彼女のペースは相変わらず掴めない。
「はい、お待たせ。生姜焼き定食ね。まどか、無花果さんに変な絡み方しちゃダメよ」
厨房から女将さんが、湯気の立つ皿を僕の前に置いてくれた。
「もう、絡んでないよ。科学的なレクチャーをしてあげてただけ」
神凪さんは唇をとがらせると、また手元の専門書に視線を戻した。
いただきます、と手を合わせ、僕は生姜焼きを一口食べた。
じっくりと味わい、ふぅ、と安堵の息を漏らす。
「どうですか? 今日の生姜焼きは」
隣から、神凪さんが本を伏せて覗き込んできた。
「どうって……普通に、いつもの美味しい生姜焼きですよ。レモン汁の味なんて、これっぽっちもしません」
ドヤ顔で言い切った僕を見て、女将さんがお盆を胸に抱えたまま、いたずらっぽく眉を下げた。
「あら、嫌だ。今日はちゃんと隠し味にレモン、たっぷり絞っておいたのよ? 無花果さん、気づかなかった?」
「えっ、嘘、本当に……!?」
慌てて肉をもう一枚口に入れ、一生懸命「酸味」を探そうとする僕を見て、女将さんはついに我慢できなくなったようにお腹を抱えて笑い出した。
「うふふ、嘘よ、嘘! 本当に素直なんだから。うちの生姜焼きはいつだって直球勝負よ」
騙された、と僕ががっくりと肩を落とすと、横から小さな、けれど最高に楽しそうな声が聞こえた。
「おかあさん、ナイス。無花果さん、また一生懸命『レモンの味』を探索しようとして、脳の無駄遣いをしてますよ」
神凪さんは悪戯っぽく目を細めた。
本当に、この店の人たちは親子揃って僕をからかって楽しんでいる。
「……昨日から、僕の扱いが雑すぎませんか」
ため息を吐きながらも、僕はなんだか可笑しくなってしまって、小さく口元を緩めた。呆れるのを通り越して、この温かい時間そのものが、なんだか居心地よくてたまらない。
僕は再び、生姜焼きを一口咀嚼した。
「ごちそうさまでした」と頭を下げて店を出ようとすると、神凪さんが手元の本からひょこっと顔を上げた。
「無花果さん、また明日。味覚、ちゃんと鍛え直しておいてくださいね」
「……努力します」
背後で響く彼女のくすくすという笑い声と、女将さんの「またねー!」という声を背中に受けながら、ガラガラと引き戸を開けて夜の街へ出た。
暖簾をくぐると、夜のひんやりとした風が、生姜焼きの熱で少し上気した頬を撫でる。
駅へと続く少し薄暗い住宅街を、僕はポケットに手を突っ込んで歩いた。
口の中には、まだ美味い生姜焼きのタレの香ばしさが残っている。
(味音痴、か……)
神凪さんの、あのいたずらっぽく細められた瞳を思い出して、僕は一人、夜道で苦笑した。
ふと、目を瞑ると、さっきまで隣にいた彼女の姿が脳裏に浮かぶ。
タイトにまとめた髪、そこからすっきりと伸びた白いお団子頭のうなじ。
そして――その下で規則正しく並んでいた、白と黒の、あの鮮明なボーダー柄。
いや、待て。
僕は一体、さっきから何を事細かに思い出しているんだ。
女の子のうなじや服装を、帰り道の夜風に吹かれながら反芻するなんて、どう考えても不審者のそれだ。
言っておくが、僕はどちらかと言えば女将さん――お母さんの方に大人の魅力を感じるタイプであって、断じてロリコンではない。
……いや、それはそれで別の問題があるような気もしてきた。
誰もいない夜道で、僕はぶんぶんと首を振って、脳裏に焼き付いた残像を力ずくで追い払った。
急に恥ずかしくなってきて、だれが見てるわけでもないのに足早に駅の改札へと向かった。




