第2話「真っ黒社畜と真っ白な美女(後編)」
――ガラガラ、と小気味いい音を立てて引き戸が開き、夜の冷たい空気を纏った誰かが入ってきた。
シミ一つ無い純白のワンピースを着た、20代前半くらいの女性だった。無造作にまとめられた長い黒髪から、かすかに夜の雨の匂いがする。女将さんのような温かみのある佇まいとは対照的な、どこか冷やりとした整った顔立ちに、底知れない知性と静かな好奇心を孕んだ、現実味のない硝子細工のような瞳。脇にノートを抱えた彼女は人のいない店内で、なぜか僕の真隣の席にしれっと腰を下ろした。
あまりの距離の近さと、その浮世離れした存在感に僕が硬直していると、彼女は手慣れた手つきでノートを開き、壁にずらりと貼られたメニュー短冊――「生姜焼き」「サバの味噌煮」「肉じゃが」といった文字を、真剣に見つめ始める。
彼女の視線を追うように、僕も何気なくその壁の短冊に目をやった。
その瞬間、ささやかな違和感が胸をよぎる。
おかしい。いつも見ているはずの女将さんの丸くて可愛らしい文字が、なんだか今日に限って、妙にシュッとした変な文字に変わっている気がするのだ。疲れで目がバグっているのだろうか。
「……あの、すみません」
あまりの気になり方に、僕は思わず声をかけていた。
「はい、なんでしょう」
「その壁のメニューなんですけど……なんだか、いつもと違いませんか? なんというか、ちょっと変な字に見えるというか」
すると彼女は、待ってましたと言わんばかりにニヤリと笑った。
「よく気づきましたね。それ、私が『サンスクリット第七言語』で書き直しておいたんです」
「さんすくりっとだいなな……語、え?」
聞いたこともない謎の言語に、僕の思考は完全にフリーズした。最新の言語学か何かの専門用語だろうか。僕がスマホを取り出して検索をしようとした、まさにその時。
「嘘です」
「えっ」
「そんな言葉はありません。ただの思いつきです」
彼女はクスリと悪戯っぽく微笑むと、僕の目の前の皿をのぞき込んできた。
「知ってます? 今日の生姜焼きには隠し味にレモン汁が入ってるんですよ」
「え、そうなんですか?」
僕はすっかり彼女のペースに巻き込まれながら、生姜焼きを食べた。
……美味い。いつも通り、女将さんの作る濃いめの醤油と生姜の風味が口いっぱいに広がる。広がる、のだがよく味わってみると。
「……あれ?」
心なしか、いつもより後味がさっぱりしている気がした。豚の脂のしつこさが消えて、鼻に抜ける爽やかな柑橘類の香りが――。
「レモン、入ってますね。隠し味っていうか、結構分かります。美味しいです」
「ふふ、嘘です。レモン汁なんて一滴も入ってませんよ」
「えっ」
「おかあさん、そんなオシャレな隠し味入れないし」
厨房の奥から「ちょっと、あんた失礼ねぇ!」と女将さんの声が飛んできた。
「え、あ、そうなんですか? すみません、僕の舌が馬鹿なばかりに、適当な感想を……」
「違いますよ、お兄さんの舌は正常です。これは『言語誘導による味覚の補正効果』――いわゆる広義のプラセボ効果ですね。人間って、事前に言葉で情報を脳へ入力されると、実際の感覚までそっちに引っ張られちゃうんです。面白いですよね」
彼女は満足そうに頷くと、カウンターの上のノートを開き、ペンをサラサラと走らせた。
僕をサンプルとした認知心理学の実験データか何かを記録しているのだろうか。少し気になって、僕は手元を横目で覗き込んでみた。
そこには、達筆な文字でこう書かれていた。
『無花果さん:味覚オンチ(笑)』
「……ちょっと、心理実験のデータに主観的な悪口を書くのはやめてもらえませんか」
「あ、見えちゃいました? これは悪口じゃなくて客観的な試験結果です」
彼女は悪戯っぽく笑ってノートをカバンにしまうと、立ち上がった。
「私、この店の娘で、神凪円と申します。今週からこっちの大学院に進学したので、またお会いすると思います。仲良くしてくださいね、無花果さん」
嵐のような少女は、そのまま奥の居住スペースへと消えていった。
残された僕は、少し冷めかけた生姜焼きを再び口に運ぶ。今度はレモンの味はしなかった。いつもの美味しい生姜焼きだ。
「……あの子、これからもお店に来るんですかね?」
「そうなのよ。うるさくなりそうでごめんね、まどかは、根は本当にいい子なんだけどねぇ」
「いえ、賑やかでいいと思いますよ。ごちそうさまでした」
代金を支払い、店を出る。
変な女の子だったな。
夜風を浴びながら、僕は最後のご飯の味を思い出し、それからまた明日も早いことを思い出して、小さくため息をついた。
――翌朝。
僕はいつも通り満員電車に揺られ、いつも通りに殺風景なオフィスへと出社した。
デスクについてパソコンを立ち上げる。画面には、処理しきれないほどの大量の業務メールが溜まっていた。
「無花果、昨日のトラブルの報告書、もうできてるか?」
背後から、いつもの上司のトゲのある声が飛んでくる。
「あ、はい。今すぐ送ります」
僕はキーボードに指を乗せ、メールの文字を上から下へと流し読みしながら、返信を作成していった。
いつもなら返信の一文に迷って手が止まるのだけれど、今朝はなぜか、言葉がスムーズに出てくる気がする。いつもより少しだけ早く、一本目の報告書を送り終えることができた。
その「少しずつのスムーズさ」は、一日中、静かに僕を助けてくれた。
気がつけば、山積みのタスクが、夕方にはほとんど片付いてしまっていた。
「お疲れ様でした」
オフィスの自動ドアをくぐった時、時計の針は、まだ二十時を少し回ったところだった。
いつもの帰路は終電ギリギリであるためか、世紀末のような静けさに包まれているが、今日はまだ仕事帰りの人々や、これから飲みに行く楽しげな声が溢れている。
なんだか、狐につままれたような気分だった。
けれど、疲れ果てた身体が求めているものは一つだけ。
「……よし。今日は、いつもより早く『みやこや』に行けるな」
僕は軽やかな足取りで、まだ宵の口の賑やかさを残す、駅の裏路地へと向かった。




