第1話「真っ黒社畜と真っ白な美女(前編)」
定時退社という概念が死滅して久しい我が社において、そのメールが届いたのは、定時を過ぎた17時15分のことだった。
画面に並ぶのは、クライアントからの無慈悲な修正指示、上司からの「明日朝イチまでに企画書よろしく(はーと)」という丸投げ、外回り先でのトラブル対応の着信履歴。いいおじさんが、はーと、じゃあないんだよ。
それから必死にキーボードを叩き、あちこちに平謝りの電話を入れ、ようやくオフィスを脱出できた時には、時計の針はとうに二十三時を回っていた。
終電の一本前、満員電車の吊り革に揺られながら、僕は完全に疲れ果てていた。
今年で二十七歳。社会人になって数年、僕のキャリアプランは既にバグまみれで、とうに煮詰まっているので、今さら数時間の残業というスパイスが追加されたところで、あまり影響はないのだけれど。
煮込むのはカレーだけにしてほしい。
つまるとこと、僕は腹が減っていた。
擦り切れた胃袋が、深夜のオフィス街でカラカラと空鳴りをあげている。今の僕は指示通りに動くただの歯車であり、同時に、温かい白米と出汁の匂いを渇望するただの獣だった。
そんな限界を迎えた僕を、優しく人間に戻してくれる所がある。
東京の片隅、駅の裏路地にひっそりと佇む、居酒屋『みやこや』だ。
ガラガラ、と引き戸を開けると、出汁の香りと温かい湯気が冷え切った身体を優しく包み込んでくれた。
「あら、無花果さん。いらっしゃい、遅かったねぇ」
厨房の奥から声をかけてくれたのは、店主の女将さんだ。
白い割烹着をゆるりと纏っているが、肌にはハリがあり、目元には悪戯っぽい光が宿っている。三十代にも、四十代にも見える、絵に描いたような年齢不詳の美人である。この綺麗な女将さんが一人で切り盛りしているギャップこそが、この店の隠れた名物だったりする。
(まぁ、僕はそんな邪な思いでここに足を運んでいるわけではない。あくまで女将さんの料理が好きなだけで、下心なんて微塵もないのだけれど)
「こんばんは、女将さん。すみません、こんな遅い時間に……」
そう、僕の苗字は無花果 琴葉という。花果が無いとは、ちょっと切なくも珍しい名字だ。とはいえ中身は驚くほど平凡な、便利屋まがいの会社員なのだけれど。
「いいのよ、うちは開けてるだけなんだから。今日もいつものでいい?」
「はい、豚の生姜焼き定食をお願いします。大盛りで」
カウンターの端に腰を下ろし、熱いお茶をすする。この瞬間こそ、僕を「部品」から「人間」に戻してくれるかけがえのないときである。
「そういえばねぇ」と、女将さんが調理場の奥でふきんを回しながら、世間話のように言った。「来週から、ウチの娘がこっちに戻ってくるのよ。地方の大学を卒業して、今度は東京の大学院に進むんだって。確か東京技術科学大学だったかしら、なんか難しいお勉強ばっかりしてる子なんだけど、そのうちお店にも顔を出すと思うから、その時はよろしくねぇ」
「へえ、娘さんが。東京技術科学大学って凄いじゃないですか! いえ、僕なんかただの客ですから、気にしないでください」
その時は、本当にただの世間話だと思っていた。
他人のプライベートに深入りしないことこそが、現代社会を生き抜く二十七歳・独身会社員のささやかな処世術だったからだ。
――それから、一週間後の夜。
僕はまた、同じように突発的なマルチタスクを捌ききり、二十三時過ぎに『みやこや』の引き戸を開けた。
店内には他の客はおらず、僕はいつものようにカウンターの端の席についた。今日も生姜焼き定食で命を繋ごう。
「はい、おまたせ。しっかり食べなきゃダメよ」
女将さんの温かい声と共に、湯気を立てる生姜焼きの皿が置かれる。
「ありがとうございます、いただきます」
僕が箸を取り、まさに最初の一口を口に運ぼうとした、その時だった。
ガラガラ、と小気味いい音を立てて引き戸が開き、夜の冷たい空気を纏った誰かが入ってきた。
視界の端に映ったのは、シミ一つない純白の――




